バルザックに対する評価
宮本百合子
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(例)イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・イリイッチの死
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偉大な作家の生涯の記録とその作品とによって今日までのこされている社会的又芸術的な具体的内容は、常に我々にとって尽きぬ興味の源泉であるが、中でも卓越した少数の世界的作家の制作的生涯というものは、後代、文学運動の上に何かの意味で動揺・新たな方向への模索が生じた時期に、必ず改めて究明・再評価の対象として広汎な読者大衆の手にとりあげられるものであると思う。
トルストイの作品とその生涯との社会的意味は、最近の過去十六七年間に彼の同時代人には見抜くことが不可能であったような生々とした歴史的・階級的特徴を明らかにして、世界文学の発展のために摂取せられたよろこばしい事実を、私共は目撃しているのである。
一九三三年から三四年にかけて、日本ではバルザックの作品が急激に流布した。全集刊行が着手され、ゲーテ協会に対するバルザック協会が組織され、少し誇張した形容を許されるならば、文学について語るほどの者で一度もバルザックの名を口にしない者はないという現象を呈したのである。
大体、過去においてバルザックの作品は寧ろ等閑にふせられすぎていた傾きがあった。日本の文学愛好家の大多数は、モウパッサンの作品より尠くしかバルザックを読んでいないという実状にあったと思う。それ故今日、このトゥール生れの、僅か二十年足らずの間に「人間喜劇」九十六篇のほか小論文五百十四、戯曲六篇という尨大な制作を行い、しかも生涯借金に悩まされどおしで死んだ横溢的な世界的作家に母国語で親しめるということは、我々にとって遅すぎたとしても決して早すぎて到来した機会と言えないのである。
しかし、昨今作家及び文学愛好者の間に生じたバルザック熱ともいうべきものを、その社会的要因にまでふれて観察した場合、はたして、それが文学の正常な発展のために積極的な意味だけをもつものであると言い切れるであろうか? 答えは、おのずから複雑であろうと思われるのである。
文学史の面から見ても、日本の一九三三――三四年は特筆されるべき内容をもった二年であった。一九三三年の初夏、佐野学・三田村・鍋山等の共産主義者としての理論の抛棄と日本の侵略戦争を肯定する画期的な裏切りは、勤労階級の解放運動に未曾有の頓挫を来したばかりでなく、文学をも混乱におとしいれた。プロレタリア文学の領域には、前後して社会主義的リアリズムが提唱され、創作方法組織方法に関する猛烈な自己批判がまき起されていたのであったが、討論は十分新しい課題を正当に把握しきらないうちに、前年からしばしば弾圧を蒙っていた十年来のプロレタリア文学運動の活動家の大部分が情勢に敗北する等、文学における階級性の問題はこの期間に殆ど信じられぬ程度にまで紛糾し曖昧にされたのであった。
文学におけるこの階級性の抹殺は、自ら進んでそのように作用した一部のプロレタリア作家自身の生活と文学とに方向を失わせたばかりでなく、ブルジョア・インテリゲンツィア作家たちの心持にも明らかな影響を及ぼした。これまで、文筆活動の表現においては反撥の態度をとったにしろ、或は一定の範囲での同感を示したにしろ、何らかの意味で彼等にとっても一つの社会的刺戟、張り合いとなり、新たな社会への道と新たな文学発生の可能性とを感じさせていたプロレタリア文学運動の一時的後退は、ブルジョア・インテリゲンツィア作家達をも、社会的な混迷・無力感に悩したのであった。
今日は既にプロレタリア文学の領域においても、ブルジョア・インテリゲンツィア作家たちの間にあっても、その一時的後退からの立ち直りの徴が顕著に認められて来ているが、オノレ・ド・バルザックの作品の大群は抑々《そもそも》以上のような雰囲気の裡に甦らされて来たのであった。ブルジョア・インテリゲンツィア作家は、一年来声を大きくして来た文芸復興を内容づけるためのリアリズム検討につれ、プロレタリア作家の或る者は、社会主義的リアリズムに対する或る種の解釈の模型として、バルザックの花車《だし》は、急調子に、同時に些か粗忽に、様々の手に押されてわれわれの前に引き出されて来たのである。
彼の死後九十年近くも経った今日、バルザックに帰れ、と云い出した一部のプロレタリア作家が、各自のバルザックの推戴の不抜なよりどころとしたのは主としてマルクスやエンゲルスが断片的な文句でその労作のところどころに示している、バルザックの作品に漲っている濃厚な社会性とリアリスティックな描写とに対する評価であった。マルクスは、ホーマア、シェクスピア、ゲーテなどと共にバルザックの作品を愛好したのであったが、それは全くこの偉大な十九世紀の作家が「フランスの社会の最も素晴らしいリアリスティックな歴史を与えている」からであり、資本論の或る箇所では当時の読者に親しみが深かったバルザックの作中の人物文章を引用することが賢明なマルクスにとって便利であると思われた程、資本主義の「経済的なデテールという意味でさえも、当時の凡ての専門的な歴史家、経済学者、統計学者達の書いたものを、全部ひとくるめにしてもって来ても及ばない程の」「あらゆるゾラよりも遙かに偉大なリアリスト芸術家」であったがためなのである。
エンゲルスが今日から四十六年ばかり昔イギリスの社会民主主義的婦人作家マーガレット・ハークネスに送って彼女の作品を批評した手紙の中に、以上の消息は明らかにされ、同時に、エンゲルスは同じ手紙で文学におけるリアリズムというものは「デテールの真実さのほかに典型的な情勢における典型的な性格の表現の正確さである」と言っている。バルザックは、とりも直さずそのような意味でのリアリスト芸術家であり、彼の作品がリアリズムの作品であったということはエンゲルスの云うとおり「作者の見解如何にかかわらずあらわれて来」たものである。即ち自身トゥールの農民の息子であるにかかわらず、姓名に「ド」をつけて呼んだバルザックが政治的に正統王朝派であったことは、同じバルザックが「牧師」の中でマルクスの心を打ったほど鋭く現実の資本主義商業の成り立ちを喝破していることと撞着するものでないというのが、バルザックの花車を押し出した一部のプロレタリア作家・理論家たちの論拠であったと見られるのである。
ところで、ここに一つの私達の興味と探求心とを刺戟してやまない微妙な人間の心理的発動がある。それは、上述のような部分において行われたマルクス、或はエンゲルスの見解の引用を根拠としてバルザックを推した人々が、当時の混乱していたプロレタリア文学運動に対しては一貫して文学における階級性の抹殺を提唱しかつ行動していた人々であったという事実である。
弁証法的創作方法という過去の旗じるしは、哲学上の規定と文学の方法とのけじめを明らかにしない点に誤謬をもち、様々な段階と気質の作家を直接活々とした創作活動にひき込む役には立たなかった。けれども、社会主義的リアリズムの世界的なスケールにおける今日の提唱は、決して文学における階級的主張を引こめたものではなく、それとは全く反対に、従前より更に高まった勤労階級の指導力によって、従前より更に広汎に、具体的に、政策的に、文学における階級的移行の可能性を捉えたものである。第一回全連邦作家大会の報告が、部分部分のやむを得ぬ省略を伴いながらも一冊の本となって既に現われている現在、総ての人の目に、このことは紛れのない実際の到達点として映っているのである。
大きい過去の作家らしく、大きい矛盾に充ちたオノレ・ド・バルザックは不幸にも絵にまで描かれている彼の有名なダブダブと広い仕事着の裾の一端を「リアリズムは作者の見解如何にかかわらず現れて来るものであ」るという鉤をつかって引掴まれ、計らずも一九三四年の困難な日本に、リアリズムを十九世紀初頭のブルジョア写実主義へまで押し戻そうとする飾人形として、悲喜劇的登場をよぎなくされたのであった。
「人間喜劇」の作者が、エンゲルスによってその政治的見解いかんにかかわらず「フランス社会の全歴史をまとめ」た「過去現在未来のあらゆるゾラ」を凌ぐリアリスト芸術家とされていることは、一連の人々にとって、さながら彼等自身が、今日このように自明な歴史的段階を否定し無視し、文学から階級性を追放しようと欲する心持までを、エンゲルスの卓見によって庇護され得るかのような幻想を抱かせたのである。
日本における現代文学の黎明は、明治十八年(一八八五年。マルクスの死後二年。トルストイは既に五十七歳に達して「イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・イリイッチの死」「クロイツェル・ソナタ」などを書いた年)春廼やおぼろ坪内雄蔵の「小説神髄」によって不十分ながら輪廓を示された写実主義の主張をもって始った。当時、春廼やは「彼の曲亭の傑作なりける八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて決して人間とは云ひ難かり」とし、小説というものは「老若男女善悪正邪の心のうちの内幕をば洩す所なく描き出して周密精到、人情をば灼然として見えしむる」ものでなければならず、而も「よしや人情を写せばとて其皮相のみを写したるものはいまだ之を真の小説とは言ふべからず。其骨髄を穿つに及び」はじめて小説は小説としての本質を具えるものであると説明しているのであるが、我々にとって興味ある事実は、この画期的意味をもった小冊子が当時の外国文学の潮流にのっとって著わされたに拘らず、バルザックの名には一字もふれられていないことである。
開化期の明治文学の内容は翻訳小説に尽きていると言えるであろうが、ここでも我々の遭遇するのはシェクスピア、スコット、ユーゴーやデュマであり、巨大なバルザックの姿は見当らない。
僅か三年ばかり前、新潮社が大規模に刊行した世界文学講座のフランス文学篇では、私共は正確なバルザックの略歴さえ知ることが出来ないし、更に昨今の流行とてらし合せて私達の感想を更に一層刺戟するのは、一九三〇年、プロレタリア芸術運動が高まって綜合雑誌『ナップ』が発刊されていた頃、山田清三郎・川口浩両氏によって編輯されたプロレタリア文芸辞典について、試みにハの部を索いて見ると、パルナシアンという字はあるが、バルザックという人名は見当らず、葉山嘉樹はあってバルザックはのせられていないことである。この辞典において、リアリズムに連関して現れている芸術家はゾラ、フローベル、モネ、セザンヌ等であり、しかも編者は明瞭な言葉でリアリズムの階級性にも言及している。「我々マルクス主義者の云うリアリズムをはき違えて、あたかもそれが十九世紀後半の写実主義と同一のものであるかの如く考える人々があるが、それは誤解の甚しきものである」と。
バルザックの氾濫的な芸術作品の中に如何なる大きい矛盾があったればこそ、嘗ては急進的であったインテリゲンツィアの一部がその生活と文学とから階級性を抹殺している今日の日本に、かくも広汎な鑑賞をよび起しているのであろうか? 私達はその秘密を知りたく思うのである。
オノレ・ド・バルザックは、一七九九年五月、フランスが共和政体となった第七年目に中部フランス、トゥールの町に生れた。
貴族好みで「ド」をつけて自分の姓を呼んだが、バルザックの実際の家柄は貴族などではなく、彼が後年獰猛なのがその階級の特性だと云った農民バルザの孫息子である。
父親のベルナールはタルン県の村を出て学問をうけ、大革命時代には弁護士をやった。後、陸軍の経理部に入って、世間の血なまぐさい騒ぎと自分の財布とが或る落付きを得た五十一歳の時三十二も年下のロオルという上役の娘を妻にした。
いかにも南フランスの農民出らしい頑丈な、陽気な、そして幾
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