らかホラ吹きな父ベルナールと、生粋のパリッ子で実際的な活動家で情がふかいと同時に小言も多い若い母との間に、三人の子があったが、その総領として「よく太った、下膨れの顔の、冬になると手足にいっぱい霜やけの出来る」オノレが生れたのである。
 カトリック教のひどくきびしい寄宿学校に八つのときから六年間も入れられ、あまり器用に立ちまわれないこの生徒は、終りに衰弱で半分死にかけるような苦労をした。そこで家に引きとられ、通学で十七の年法律学校を卒業した。バルザックが、文筆生活をはじめたのはそれから三年後、二十歳のときであるが、それも決してすらりと行ったわけではなく、父親ベルナールは息子を法律家に仕立てて立身させようと考えた。そしていよいよ事務所まで買いかけたことがわかった時、大柄なずんぐりな二十の息子であるバルザックは父親と大論判をはじめた。バルザックはどうしても文学をやるのだと云って「大声に泣き叫ぶ」騒動を演じた。
 母のとりなし、特に妹のロオルの支持で、バルザックの作家志望は遂にきき届けられた。然し、それには一つ妙な、父親の地方人らしい、実利的な条件がついた。二年間だけ好きにさせてやるから、その間にものになれと云うのである。
 喜び勇んだバルザックはアルスナール図書館近くの屋根裏に一部屋をかり、寝台と机と二三脚の椅子と、餓え死しないだけの仕送りとをもって、愈々《いよいよ》「ナポレオンが剣によって始めたところを筆によって成就する」ため、復古時代から七月革命を経て、複雑きわまりなく推移しつつあったパリの生活へ飛びこんだのであった。
 当時、フランスは、将に「中産階級が歴史の舞台へ決定的にのり出して来た」一大時代であった。工業が発達し、商業が自由になり「ナポレオンによって全ヨーロッパに及ぼされた国富の新しい配分が、特にフランスにおいてその実を結びはじめ」ると同時に、大革命時代に「没収されていた教会僧院の財産は勿論、或は分割され、或は競売に附せられた貴族の財産も亦今や嚮日とは比較にならない程数多い新所有者の手に帰したのである。従って金銭がブルジョア生活の動力となり、又同時に万人の渇望の対象となった」激烈な時代であった。
 七月革命で、ブルジョアジーの利害の代表者としてのルイ・フィリップが王位に置かれた後は財界の覇者、金銭の威力は極度にふるわれ、企業家で金持ちの成上り貴族によって土地所有者である旧貴族は全く圧倒されるようになった。フランスの社会は、「新たに世界の王者となった」金銭をめぐって煮え立ち、金持は無趣味で仰々しい厚顔の放埒に溺れ、金を持たぬものは、持たぬ金を更に失うことを恐れて、偽善的に「中庸」を守る俗人生活にくくりつけられた。オノレ・ド・バルザックはパリの屋根裏から昂然と太い頸をもたげ、南方フランス人の快活さ、自信、加うるにブルジョア勃興期の特質をまぎれもなく自身の血の中に具えて、「名声」と「富」とを勝利の花飾りとして情熱的に夢見つつ、文学の仕事にとり組みはじめたのである。
 二十歳のバルザックはレディギュール通りの屋根裏で、ストーブもたけず、父親の古外套で慄える体をくるみながら、ひどい勢で先ず幾つかの喜歌劇を書いた。喜劇「二人の哲学者」というのも書いた。けれども、その時分は、ただ筆蹟がきれいだということ位しか認められていなかった彼の喜劇はどうも思うようではなく、つづけて二つ小説を考えたが、それは題だけは出来てものにならなかった。
「ああロオル、ロオル!」と彼はその頃書いた妹への手紙で訴えている。「僕には二つだけ望があるのだが、その望みの大きいことはどうだろう。有名になって愛されること[#「有名になって愛されること」に傍点]。この僕の望みは果して叶うだろうか。」
 二十二の年に悲劇「クロンウェル」が書き上った時、バルザックはこれこそ「民衆と諸王との祈祷書」になり得る作品であると信じ、両親や友達を集め、朗読会を催した。彼が数ヵ月の間、部屋も出ず、レモン水と堅パンとで暮しながら書き上げた「クロンウェル」の効果は意外であった。
 朗読は「少しの反響もなく、聴衆の陰鬱な沈黙と呆然自失のうちに」終り、更にその原稿を見せた理工科学校の一老教授は、親切にバルザックに忠告した。「どんな仕事でもやりなさい。ただし文学だけは除いて[#「ただし文学だけは除いて」に傍点]」と。
 この「クロンウェル」の失敗は然し、バルザックの生涯にとって決して消極的な役割だけをもつものとはならなかった。両親は却ってこの熱烈で大柄な若者の野心の余りひどい挫折を劬《いたわ》り、小説で成功するためには、金儲けをすると同じに、やはり時間のいることをおのずから会得したものか、健康恢復をさせるため、バルザックを当時隠退して住んでいたヴィルパリジェスの家へ引きとった。
 食う心配はなくなったけれども、公証人の収入と小説家の収入とを敏感にくらべている両親を納得させ独立するために、金はやっぱり自身のペンで稼がなければならぬ。ヴィルパリジェスに住んだ四五年の間に、バルザックは、或るものは独りで、或るものは友達と協力して、妹ロオルの言うところによれば、実に数十冊の小説をいくつかの仮名で書き、それを売ったのである。不如意な窮屈な生活と闘い、自分ながら本名を出しかねるような三文小説を売りながらも、次第にバルザックは文学における自身の力をおぼろげに自覚しはじめたらしく思われる。彼は「自分の思想の一番いいところをこんな仕事に犠牲にしなければならないのは堪らない」と歎息を洩している。この期間に、有名なマダム・ド・ベルニィとバルザックとの十年間に亙る意味ふかい相識がはじまったのである。
 ロオル・ベルニィ夫人の父というのは、ルイ十六世の宮廷に出入してマリイ・アントワネットの音楽教師を勤めたヒンネルというドイツ人であり、母は、ルイズと云い、マリイ・アントワネットの侍女の一人であった。父の死後母は熱心な王党員である司令副官と結婚し、この一家とマリイ・アントワネットのきずなは、アントワネットが断頭台にのぼる前、ロオルの母に自分の髪飾りと耳輪とを形見に与えた程深いものであった。
 そのような環境の中に幼時を経た頭の鋭い感傷的な性格のロオルは、僅か十五の年、宮廷裁判所の判事である貴族出のベルニィと結婚させられた。大革命期には夫妻とも九ヵ月幽閉され、ロベスピエールの失脚によって解放された経験もある。早すぎて母になったベルニィ夫人と良人との結婚生活は性格の不調和から冷たいものであった。ベルニィ夫人の夏別荘がヴィルパリジェスにある。そこへ息子の復習を見てやりに行ったのが機会となって、バルザックは当時二十歳以上年上であった夫人と結ばれたのである。
 バルザックにとってこの結合は初恋であり、ベルニィ夫人にとっては最後の恋であった。この結合において、若いバルザックの受けた影響の深刻さは、彼の無限な作家的観察力をもっても猶自身の力では計ることが不可能であったと思われる程のものがある。ベルニィ夫人はバルザックを世間に押し出すために全く「母以上のもの、友達以上のもの、一人の人間が他の人間に対してなし得るすべてのものに優る」献身的な情愛と社交婦人としての実際的な手腕を傾けたのであった。彼女はバルザックをカストリィ公爵夫人のサロンに紹介し、そこに集るド・ミュッセやサント・ブウヴなど当時の著名な文学者に近づけるための努力をした。十数年後ハンスカ夫人に宛てた手紙の中でバルザックが当時の優しい回想に溺れながら述べているように、困窮の中にある「人間を極度の卑屈から守る自負を」バルザックの心に植えつけたのも彼女の激励のたまものであった。ベルニィ夫人は、自分が両親を通して知り得た宮廷生活の内幕、とって置きの、歴史家には知られていない事件などを作品の材料として話し制作を刺戟したばかりではない。百姓バルザの精力と野心とに溢れた孫息子が、少年時代から憧れ通してしかも接近し得ないでいた貴族趣味、教養、貴族的気位、カトリック教の神秘の霧で、ベルニィ夫人は自身の逞しい素朴な愛人をくるみこんだのであった。
 ベルニィ夫人の生活は、その時既に新興ブルジョアと成上り貴族によって経済的に圧迫された貴族、人知れずやりくりに心を労し「小作人、家政のうんざりする細々したこと」に自ら煩わされなければならない、落魄に瀕した旧貴族階級の典型のようなものであったらしい。それにもかかわらず、社交界の伝統的な重い扉は、まだ艷を失わぬベルニィ夫人の手によってバルザックの目の前に開かれた。
 若い情熱的なオノレ・ド・バルザックは社会的には古く、而も彼の感覚には新しかった社会層との接触によって殆ど陶酔的に亢奮したらしく見える。二年前彼が二十の時、レディギェール通りの屋根裏部屋から愛する妹のロオルに切々と訴えた二つの希望「有名になって、愛されたい」という大きい希望に今やもう一つの、更に困難で、投機的ないかにも当時らしい性質をもった大望が加えられた。それは、「自分も金持になって[#「自分も金持になって」に傍点]、貴族になりたい[#「貴族になりたい」に傍点]」という願望である。一八三〇年前後のパリがそれを中心として二六時中たぎり立っていた「成上り」の慾望と焦心がトゥール生れの彼をもはっきり掴んだのであった。
 バルザックは、熱中して金儲けのことを考えるようになった。貴族になるどころか、満足に自活も出来ない当時の現状は彼を苦しめた。どちらかといえばバルザックより遙に実際的であったベルニィ夫人も、そのことは現実の必要な問題として、相談にのることを拒まなかった様子である。金を儲けなければならぬ。しかもバルザックは窮局において自分の欲求を充す最も有力な土台となるのは自身の芸術上の成功であることを直覚していたから、落付いて本当の文学的作品を書く余裕をつくるためにも、彼はたまらなく金が欲しかったのである。
 想像力と思いつきとに溢れたバルザックの頭は、或る特殊な出版事業を思い立った。それは、フランス劇文学におけるアポローであるモリエールと十七世紀の大古典派の宝ラ・フォンテーヌの作品の美しい絵入り本の出版とその売捌きである。一八二五年、ロシアでは有名な十二月党《デカブリスト》の反乱が悲劇的終結をとげた年、愈々この出版事業にとりかかった二十六歳のバルザックは、自分から活字屋になり、印刷屋になり、本屋にまでなって悪戦苦闘したのであったが、この金銭争奪で未熟な事業家バルザックがその一身に受けた打撃は恐ろしいものであった。ブロックをつくってそろそろと、しかし確実に孤立した小資本の企業を食い殺す大資本企業家の悪辣な術策がバルザックを破滅させた。フランス全国の同業者等は、この唐突に現れた資本も少ない若年の一出版業者が、疑なく時流に投じるであろう出版計画をもっていることを見極めると、共通な悪計によって結束した。一万フランの資本をかけて出版した本の売上げが、一年にやっと二十部という目にあわした。たった三年の間に、十二万フランの負債をしょったバルザックは、遂に力つきて、美しい出版物を紙屑のような価で投げ売りにした。その時を計画的に準備し、待っていた同業者共は、労さず数万の利益を得たのである。
 この恐るべき三年間を始りとして、バルザックは終生近代資本主義経済の深奥のからくりにふれざるを得ない立場におかれるようになった。彼は金の融通の切迫した必要から銀行の組織に精通し、パリじゅうの高利貸と三百代言を知り、暫くではあるが公債のためにサン・ラザールの監獄へぶちこまれた。再び狼の爪につかまれぬためには、変名して手紙を受とったり、住居を晦《くらま》したり、辛酸をなめた。母親とベルニィ夫人の助けで一時は凌いだが、バルザックはこの破綻で「単に貧しい男となったのみではない。」「苦しい借金を免れ、母から借りた金を返すために生涯の間休息も安眠も出来ず働かなければならない」端目に陥ったのである。「経済の安易を求めて却ってその困窮を招いた」わけである。
 多くの伝記者は、バルザックが常に好んで「私の借金、私の債権者ども」と云ったことを記録
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング