の足を引かけ得る投繩となっている。バルザックが、十世紀の勃興する自然科学の新世界にふれて、自分から「自然科学者」であると名のりつつ、ジョフロア、サン・チェーレの生物学における種の認識を根拠として、社会と自然との類似を指摘し、「社会は人間をその生長すべく運命づけられた環境に従って作りあげる」と云う時、今日の知識人はバルザックが自然科学をよりどころとして却ってプラトーの奴隷搾取者としての社会観に似るところまで反動的に引戻ったことを直ちに理解する。然し、現代の高度な資本主義の社会観の発展と地球六分の一をしめる社会主義体制との摩擦は、自ら異った容貌で、新興勢力の裡にふくまれている強大な可能性を歪曲しつつあるのであるまいか。

 エンゲルスがマーガレット・ハークネスに送った手紙に「作者の見解如何にかかわらず」「政治的には正統王朝派で」あったにかかわらず、バルザックが「真の未来の担い手たちを見てとったこと」、それを「リアリズムの最大の勝利の一つであ」る、そしてバルザックこそ偉大なリアリスト芸術家であるとしていることは、誤りでない。しかしながら、歴史上権威ある人々の書簡には或る場合註釈が必要とされるように、現段階にたってエンゲルスのこの書簡が読まれるについては矢張り幾つかの短い脚註の必要がさけ難いと思われる。
 例えばエンゲルスは、この手紙において、バルザックが「真の未来の担い手を見てとったこと」までにしか触れていないのであるが、今日の世界の到達点に生活する我々の実践的な要求にとってはそれから先きのこと、即ち、バルザックが自身の力で見てとった[#「見てとった」に傍点]真の未来の担い手に向って如何に結合して行った[#「如何に結合して行った」に傍点]かという、その現実の過程に迄立ち入って学ばなければならない。『マルクス・エンゲルスの芸術論』(岩波版)においてエフ・シルレルは精密な解註を附している。シルレルは、バルザックの芸術についてエンゲルスの言ったリアリズムとは、「資本主義的発展の内在的矛盾を――それが一般にブルジョア的創作方法に可能である限りにおいて、というのは、ブルジョア的リアリズムは究極において観念的[#「観念的」に傍点]なものになるからだ――解明するようなリアリズム[#「リアリズム」に傍点]」の問題であると、説明を加えている。これは妥当な註解であると思われる。然しながら、エンゲルスの手紙からの上記の引用を基礎として、エンゲルスは、「バルザックのリアリズムは革命的であると見ているのである」とやつぎ早に結論しているのは、理解に或る困難を引おこされる。ゾラのバルザック論その他に対し、芸術創作の過程における意識下的なものの力を過大視する評価のしかたに賛成を表さぬシルレルの態度は十分うなずけるが、その点を押し出そうとして、無条件に、バルザックが現実観察に際しては「分析的な、研究的な態度をもってその社会的現実の種々相を広汎に描いてい」るとだけ言い、しかも「デテールの真実さのほかに、『典型的な性格と典型的な情勢との表現の正確さ』がある」、正にエンゲルスが「人間は彼が何を[#「何を」に傍点]しているかということだけで特徴づけられたのではない。更に彼がそれを如何に[#「如何に」に傍点]なしているかということが大切なのだ」とラッサールへの手紙の中で言っている要求した通りにバルザックは主人公を書いたとだけ強調しているシルレルの言葉は、バルザックに対するエンゲルスの理解の正しさを裏うちしようとするあまり、却ってエンゲルスの批判にふくまれている複雑性をおおい、同時にバルザックの複雑な現実をも単純に片づける結果となっている。窮局において、バルザックは「いかなる場合にも全体としてはブルジョア・イデオローグであり、ブルジョア芸術家であった。」フランスの古い商業ブルジョアジーの社会観の支持者であったことをシルレルも認めているのであるから。
 シルレルのエンゲルスの言葉に対する理解は稍々《やや》皮相的に表現されていると感じられる点は次のような部分にも認められる。例えばバルザックの作品の現実について読み、観察をした者は、単にバルザックの主人公が何を[#「何を」に傍点]、如何に[#「如何に」に傍点]したかを理解するだけでなく、当然のこととして作者バルザックはその一篇の小説の主人公とその環境の描写を通して、何を如何に言わんとしているか[#「何を如何に言わんとしているか」に傍点]ということに迄触れて含味せざるを得ない。作品の実際では、何を[#「何を」に傍点]、如何に[#「如何に」に傍点]ということが二重になって切りはなせぬ相互関係において生きて来る。作品の具体的な場合について見ると、屡々この二重の何を如何に[#「何を如何に」に傍点]の間に或る矛盾がひき起されていて、或る作者の真骨頂をその芸術作品の具体性において捉えるためには、外でもないその二重に押し出されている何を如何に[#「何を如何に」に傍点]の間に在る矛盾の本質をこそ究明しなければならないという場合がある。シルレルが見落しているこの小さい、而も重大なる点が、バルザックの正しい理解のためには特に慎重にとりあげられなければなるまいと考える。何故ならば、バルザックは全作品の随処に自身の熱血的矛盾を吐露していて、主人公を簡単にはっきり捉え、何を如何に[#「何を如何に」に傍点]したかという一筋の道行を挾雑物なしに描く場合は実に稀であった。描写の間に、或るところでは描写を押しつぶして作者の説明や演説が出て来て、それは主人公が何を如何に[#「何を如何に」に傍点]したかということに絡んで引き出された全く作者バルザックの主観であり、独断であり、或は偏見や追随である場合が多かった。故に、バルザックの場合、文体の独特な混乱の性質、そこに現れている矛盾の社会性がつきつめられてこそ彼から汲取る教訓は無尽蔵なのであり、而もそれをなし得るのは、彼の同時代人テエヌではなくして、さらに発展した今日の唯物論の立場に立つもの、社会現象の領域にまで及ぼして「社会的環境が人間を創り、同時に人間が社会的環境をつくる」という相関関係を解きあかすことの出来る弁証法的唯物論の立場に立つ者、バルザックによって見てとられた未来の真の担い手に初めて与えられた歴史的な歓ばしき可能性であり、任務であると思われるのである。

 斯くてバルザックは一八五〇年、ロシアのウクライナで二十年来交誼のあったハンスカ夫人と結婚し、パリに帰ったが、既にウクライナで病んでいた心臓病が重って、八月十八日、五十一歳の多岐にして矛盾に満ち、その矛盾において十九世紀初頭のフランス社会を反映したところの大生涯を終った。
[#地付き]〔一九三五年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文学古典の再認識」芸術遺産研究会編、現代文化社
   1935(昭和10)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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