のない天才の資質とをもって其を眺めた」バルザックが、複雑多岐な形態で各人に作用を及ぼしている社会的モメントをつきつめれば、それは二つのもの、色と慾とであることを観察し、更にこの二つのものにあって窮極の社会諸現象のネジは、外ならぬ金銭であることを結論したのは、疑いもなく他の追随を許さぬ彼の現実探求の積極性であった。
 ところが、ここに見落してはならぬことは、そのバルザックが自身の悲喜をも含めて運行するあらゆる社会生活の現象の奥に金の力を看破したと同時に、その威力に屈伏し、広汎な現実生活の社会性、歴史的発展の要因をその関係においては飽くまで受動的に固定させてしか理解し得ない状態に陥ってしまった事実である。
 金銭争奪とブルジョア階級の資本の集積のためにとられる結婚制度から殖民政策に到るまでの諸手段とその過程を、バルザックは完膚なく文学に描き出し、その点では全くマルクスやエンゲルスにとってさえも有益で具体的な資料を与えた。然しながら、バルザックは、その金銭が本質に含んで刻々に増大させつつある生産諸関係の矛盾や、それによって心然に惹き起される支配階級の質的変化という現実のより深い真相、歴史の動きゆく基本的な動力に対しては、盲目に等しかった。彼は、社会の「複性は同一の実体(彼はここに金を置いた)の諸形態である」と考え、又当時既にブルジョアジーにとって脅威であった民衆の擡頭は、ブルジョアジーが貴族に対して擡頭したのと同じこと、否、貴族に代って権力を把り、貴族の行った総ての悪行を更に小型に没趣味に多数に再生産したブルジョアの醜行非道を、一層卑穢に而も下層階級の夥しい人口の数だけ増大させるに過ぎない恐るべき「近代野蛮人の貪婪」であると理解した。バルザックはパリの階級勢力の移動と栄枯盛衰がその間に激しく行われた七月、二月の政変をも経験したのであったが、彼は社会的変革も要するに金をめぐってもがく人間の流血的な循環運動にすぎぬと、観たのであった。
 それにつけて私共の思い出すのは、バルザックがシボの女房を描いた、その描きぶりの特徴である。バルザックは、シボの神さんがポンスの財産をせしめようという慾に目醒めた、その途端に、彼女の平凡な市民的親切心が全く質的に一変した有様を、読者の日常心を刺すような鋭さで描破している。私共は、そこに可怖《こわ》い程なリアリストとして心理のモメントを捕えている作家バルザックの慧眼を感じるのであるが、さて、一旦慾にかかって腹をきめてからのシボの神さんの描写はどうであろうか? 私共は慾の女鬼として一貫性はありながら、何だか本当にされぬシボの神さんの現実性を感じる。慾の一典型ではあろうが架空的な誇張や一面的な強調を描写の中に感じ、そこに至ってはバルザックがロマンチストであったことを却って思い返す心持になって来るのである。
 この現実の描写にあらわれて来ている理解の食い違いこそ、バルザックが受け身にだけ、而も具体的内容では必然的に違うそれぞれの階級の歴史性を抹殺して、金に支配される点だけを観念化して同一視した彼の世界観を、私共に説明するものなのである。
 バルザックはプロレタリアートが次の社会の担い手であることを当時の現実から承認せざるを得なかったのであるが、彼はそれを、「循環する自然の現象」の一つと見て、その意味で避け難いものとした。社会関係で人間の悪徳、美徳は変ると一方に理解しつつ、バルザックは次代の担い手「現代の野蛮人」は、変化された社会関係の具体的現実によってどのように高められ得るかという、発展の可能性は見出し得なかった。だから、彼は飽くまでも経験主義者らしく、また百姓バルザの野心大なる孫息子らしい富農的現実性で、プロレタリアート鎮圧のためには、「彼等すべてに所有の感情を与えよう」とか、カソリック宗教だけが金銭に対する慾心の焔に水をかけるものであるとか、彼等が専制政治の徳を知るまでは不幸に呻吟せざるを得ない等と考えたのであった。
 この新たに盛り上って「慎重になった民衆のサムソンは今日以後、社会の柱石を祭典の広間に揺がす代りに、穴倉の中で覆す」であろう階級勢力を、「支配するためには暗黒にとどめて置かなければならない」というバルザックの実践的な結論と、彼が法律や権力の偽善をあばき、それが富者のより富むための道具に過ぎぬことを実に彼独特の巨大な熱情と雄弁とで曝露した事実とは一見矛盾するが如くであって、而も彼にあっては些の撞着もなかった。何故ならば、オノレ・ド・バルザックは二十で、一文なしの見習文士として屋根裏で震えながら海のようなパリの屋根屋根を眺めていた時から、全くすべてのブルジョアの若者が抱くものと同一の端緒的な欲望「金持ちになって、愛されたい」ために焦慮しつくし、更には「金持ちになって、貴族になりたい」ばかりに、死後までのこるような負債をさえ背負い込んだ。パリにおける偉大な地方人バルザックのいかにもその時代のフランスらしい成上り慾は決して彼が希望するような程度に充された時がなかった。彼が必死に富もうとすれば、より富んでいるものが更に富むために彼を詭計に陥れ、富者の権力、その法律はその富者の公然たる詭計を擁護し、裸同然の彼を追いまわし苦しめた。彼がブルジョアジーを猛烈に攻撃するのは、実に彼自身がその一人となろうとする慾望の邪魔をされつづけたからであり、彼の貴族崇拝、正統王党派的見解は、既に崩壊した階級の敵と個人としての彼の敵とが計らずも一致したからのことであったのである。
 それであるならばと、私共の心には別の疑問が生じて来る。どうしてバルザックは、その憎むべき階級ブルジョアジーを倒す新手の力、彼の怨恨の階級的な復讐力としての大衆を見ることは出来なかったのであろうかと。答えは、矢張り同じ源泉から引出されると思う。バルザックは現実社会との格闘において、彼が希望したように宏大な規模においてでこそなかったが、既に十分大きい名声と借金とともにではあるが富をも「所有し」その「感情をもっ」ていたのであり、大衆がその土台を穴倉から覆すことがあれば、彼は自身が憎悪に燃えつつ膏汗を代償として奪い掴んだ一片のものさえ放棄しなければならなくなるであろうことをまがうかたなく知っていたからである。
「革命の与える経済的擾乱ほど悲惨なものはない。」最悪よりはより尠き悪を、大衆による広汎な悪徳の伝播よりは、まだしもブルジョアの今のままでの悪行を! そして、自分が無一文になるよりは腹立たしいが今あるものを手離さず! そういうのがバルザックの考えかたの道筋なのであった。
 私達はここで一つの意味ふかい手紙の数行を思い起すのである。一九三三年一月に蔵原惟人が獄中から或る友人に宛てて書いた手紙の中にバルザックのことがトルストイとの対比においてふれられている箇所がある。すでにその時分、プロレタリア作家の一部にリアリズム研究の対象としてバルザックがとりあげられ、それに関して獄中の彼へ手紙が送られたのに答えたものである。手紙の筆者が「復活」のネフリュードフやカチューシャが写実的にかけていないこと、その点ではむしろバルザックの諸作品の方がすぐれていると、当時の流行にしたがった解釈を来しているのに対し、蔵原は、トルストイが「復活」においては「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」をも含む自分の過去のすべての芸術作品を否定し、それ以上のものを望んだのであるが、「彼がそれによって立っていた思想が間違っていたのと、彼が理想というものを社会の現実的な発展以外のところから取って来たから」破綻したこと。「これに反してバルザックは自分の観照の世界に満足してそれから一歩も外に出ようとしなかった」ことを指摘している。書簡は更に不自由そうに「哲学者は世界を様々に解釈して来た、しかし重要なことは云々というフォイエルバッハ綱領の中のマルクスの言葉はそのまま芸術の場合にもあてはまります。芸術はこの世界をあるがままに描写していればよいのではありません。この意味で人及び芸術家としてのトルストイは到底バルザックなどの及ぶところではないと思います。」と、現実観察の急所にふれているのである。

 一八三〇年七月革命後、常に蝙蝠《こうもり》傘をもって漫画に描かれた優柔不断のルイ・フィリップがブルジョアジーの傀儡《かいらい》君主として王位についた時、一層凡庸化し、銭勘定に終始する俗人共の世界に反抗して、ユーゴー、ド・ミッセ、デュマ、メリメ、ジョルジュ・サンドなどは、いずれもそれぞれの形で日々の現実から離脱しロマンチシズムの芸術にたてこもった。或るものは異国趣味の裡に、或るものは歴史小説の中に、ジョルジュ・サンドは彼女の穢れない女性の霊魂の描写の中に。法律学校を出たきりのバルザックばかりは、他の作家たちのようにそれにたよって現実から遁走するためのどんなギリシャ芸術の蘊蓄も古文書に対する教養も持合わせていず、天性の豊富な想像力が活躍するとなれば、それは必ず極く現実的な内容しか持てなかったという事実は、何と意味深い示唆であろう。成程バルザックは、沢山旅行をし、サルジニアや南部ロシアへまで出かけたこともあった。が、それはゴーチェが異国情緒を求めてスペインへ行ったのとはちがい、サルジニアに在る銀鉱で儲けようと思いついたからであったし、南露には後に結婚した彼の愛人ハンスカ夫人が三千人もの農奴のついたそこの領地へ行っていたからである。
 バルザックは、ユーゴオのようにギリシャ悲劇の教養を土台にして、その作品に美と獣性、淫蕩と清純な愛、我慾と献身という風な二元的な対位法を使い、ロマンティックな荘重さ、熱烈さ、高揚で、文体を整えることも出来なかった。バルザックはこれらの輝きある作家たちが、所謂現世の悪に穢されぬ崇高な本性を人間に見ようとしてそれを描こうとした、その人間の本性をさえ金に支配されずにはいられない現実をパリの場末町の散歩にまでも目撃せざるを得なかった。無財産で、しかも金が万事である世間を大きく渡ろうとする彼には金がいる、金をとるためには書かねばならない。書くとすれば、バルザックには一八三〇年代四〇年代のパリを中心として煮えたぎった生活経験しか有りよう筈がないではないか。
 テエヌは、バルザックが人類史を知らなかったから自分の生活した時代だけを特別憎悪すべきもののように思っていたと言っている。私達は、然し、そのことを又別様に考える。バルザックが、人類史を知らなかったこと、そのような本を積上げた祖父の大書庫などはないバルザの家に生れたことこそ、彼がその文学的成功においても、破綻においても、全く当時としてのリアリスト[#「当時としてのリアリスト」に傍点]たり得たことの基因であったと観るのである。
 バルザックには「理想主義がなかった。彼が偉大な作家であったに拘らず、当代の人々に完全に評価され得なかったのは、彼が精神的な指導者でなかったからである。」「彼は彼の時代を動かしていた社会主義運動を少しも理解しなかった。」そして、ブランデスは「次第に人々は彼が一定の明白な思想を持たない曖昧な人間に外ならないことに気付いた」と言っている。
 もしバルザックが、あの経済機構の看破の上に一歩進めて理想を持ち得たとしたら、それは当然の結果としてジョルジュ・サンドの理想主義のような形而上学的な性質のものではなかったろうことは明白ではなかろうか。遙に具体的で社会の現実を現実的に変更する力を備えた実践の方向、バルザックが四十七歳で「従妹ベット」を書いた年、既にブラッセルで連絡委員会を開いたマルクスが示していた歴史の発展の方向に、自身の道を発見するしか仕方がなかったであろう。
 然し彼は、その道からは恐怖をもって退いた。そして実は彼の敵であった階級の詐術にかかり、最後にはその安定を強化するための思想的代弁人の地位にさえずり込んだ悲劇の担い手としての不屈な姿を今日に示しているのである。
 しかもバルザックが遭遇したような歴史的めぐり合わせは、資本主義による階級対立の社会が続いている今日においても、その特殊な内容をもって十分智的才能者
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