、業々しい書き起し[#「業々しい書き起し」に傍点]に煩わされ、乱彩[#「乱彩」に傍点]ぶりに悩まされ、詩人バルザックの難渋さに苦しむのである。そして、最後にその人はこう云うのである。「私が誰かの作品を読むというのは、教養が高くひとと会談する術をわきまえている人を私の家へ入れるのと同様である。ところでバルザックさんは、技芸辞典かドイツ哲学史提要か自然科学辞彙かのようなもの言いをする。たまたまそういう暗号のような言葉を使わない時には、猥らなことを言ったり大声で叫んだりする労働者のバルザックが姿を見せる。それからとうとう芸術家のバルザックが出て来たかと思うと、それは多血質の、乱暴な、病的な男で、さまざまの観念が、盛り沢山な、凝りすぎた、埒外れな文体に盛られて、やっと外に飛び出すという状態である。このような人は、ひとと談話するすべを知らない人だ。わたしの家の客間《サロン》にはそんな人は入れない。」
テエヌとサント・ブウヴの批評家としての歴史における価値の相異は、まさにこれから先に発展する二様の見解によってはっきりと決定されるものである。サント・ブウヴは、大体同じ批評の後バルザックがせめて古典
前へ
次へ
全67ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング