ユロ男爵を遂に社会のどん底につき落したパリの美人局《つつもたせ》、従妹ベットの共犯者マルヌッフ夫妻の住んでいるぞっとするような湿っぽいルーブルの裏通りへ連れ込まれる。マルヌッフ夫婦の悪行で曇った食事皿の中の隠元豆に引き合わしてしまうまで、バルザックは一旦掴んだ我々の手頸を離さぬ。更に、ポーランドの独立運動に対する妥協のない作者の反感。常にイギリスに反撥して示される民族主義的な誇、「私の政敵は即ちこの政敵です」「ああ王族は血統純美」というような蕪雑な王党的自己陶酔。一層我々に納得されにくい独裁専制政治と宗教についての暴圧的政治論等々、読者は決してすらりとこの一篇の小説を読み終せることは許されない。種々の抵抗にぶつかり、小道へまで引きまわされ、脂のきつい文章の放散する匂いに揉まれ、而もそれらのごたごたした裡から、髣髴と我々の印象に刻された従妹ベットの復讐の恐ろしい情熱、マルヌッフ夫妻、ユロ男爵の底を知らぬ深刻な情慾への没落、カトリック的献身の見本のようなユロ男爵夫人、ジョセファを繞《めぐ》るドゥミモンドの女たちの強い身ぶり暮しかた等は、極めて色彩が濃く、忘れようとしても忘れることは不可能である。すべての人物が着実に現実的に描かれているかといえば、そうではない。金モール内職のベットがマルヌッフのサロンでは、俄然ダイアモンドのような輝きを発揮しはじめたり、奇怪な老婆がいきなり登場したり、ユロ将軍の最後の条などは、明らかに前章に比してなげやりに片づけられている。つき進んで云えば、従妹ベットの心持が、あのような規模と貫徹性とをもって発動し作用し得るかどうかについても一応うたがわれないこともないのである。
 バルザックと同時代の作家であるメリメの作風と比べて、これは又何たる相異であろう。フランス散文の規範のようなメリメは異国趣味でロマンティックな題材と情熱とを、厳しく選択して理性的に配置した文章の鮮明な簡勁な輪廓の中にうちこんでいる。メリメの作品の力と欠点とは整然とした描写の統制の中にある。
 バルザックの文章は、書かれている事件が複雑な歴史に踏みへらされたパリの石敷道にブルジョアの馬車が立ててゆく埃を浴びているばかりでなく、文章そのものが、まるで、一見無駄なものや、逸脱したり、曖昧であったりする様々な錯綜したものを引くるんで我々の日常に関係して来る社会生活そのもののような性質を帯びている。バルザックの小説において、読者はユーゴオの作品に対した場合のように、主要人物の動きにひきまわされるばかりではすまない。もう一つ、文章そのものに感情を刺戟されたり、思考を誘い出されて観察を目醒まされたり、と揉まれるのである。そして、我々は時に退屈したり、腹を立てて、バルザックを軽蔑したり、つまり自身の内から情感を生き生きと掻き立てられて、結局全篇を貫く熱気に支配されるのである。
 バルザックの文章の渾沌的情熱の模倣は不可能である。真似したとすれば、彼の文章の調子の最も消極的であるところだけが瑣末的な精密さや、議論癖、大袈裟な形容詞、独り合点などだけが、大きいボロのような重さで模倣者の文章にのしかかり、饐《す》えた悪臭を発するに過ぎないであろう。
 バルザックの文体を含味する余裕、その諸要素を理解し分析する力の積極性においては、同時代人の中でも、後に自然主義文学に基礎を与えたテエヌが流石《さすが》に立ちまさった見解を示している。サント・ブウヴは、バルザックが「従妹ベット」の中のパンセラスに関しての芸術論で「客間《サロン》で大成功をして、大勢の芸術愛好家に相談をされて、批評家になってしまった[#「批評家になってしまった」に傍点]。」云々ということを書いたのにひどく拘泥して、バルザックの死に際して書いた文章の中にわざわざ今日の我々から見ると意味ふかい数行を書き加え、バルザックは批評を無視したことを言っている。サント・ブウヴはその感情的基礎に我れ知らず作用されて、バルザックに対してはどちらかというと批評家としての自身の才能を活かしていない、言いかえれば出し惜しみをしているのであるが、バルザックの文体を「彼の文章の中には生き生きとはしているが、不十分で、勝手気儘で、しっかりと決っていない表現が沢山にある。それは、表現しようと企てて[#「企てて」に傍点]いるもので、何処まで行ってもそうである。彼の印刷屋はこのことをよく知っていた。」「彼にとっては鋳形そのものが常に煮えくり返っていたのであるから、金属の形の決りようがなかった。」と評しているのである。
 バルザックの文体の不確実であるという意見では、テエヌも決してサント・ブウヴと反対の側に立っていない。彼も、サント・ブウヴと同じようにフランス文学の古典の中に教養をうけて来た人にバルザックの作品を読ませたら、どんなに彼等は
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