喫驚《びっくり》するであろうかと言い、進んでこの点を一つの溌剌たる喜劇的場面に描いて追究しているのである。
 先ずその人は、大冊十六巻からなるその作品の量を見て、このバルザックという人はよくもこれだけ書けたものだと一驚しながら、手当り次第に、その一冊をとりあげ、疑いぶかそうな様子で、どこかの頁をあける。偶然こういう言葉に出くわす。「最も優雅な物質性がすべてのフランドル人の習慣の中に刻印されている。」その人は眼を丸くし、暫く考えた後、それはきっと「フランドル人はその安楽な生活の習慣のうちに、非常に風雅な趣を蔵している」という意味だなと合点する。そうして、バルザックはどうしてこんな衒学的[#「衒学的」に傍点]な物言いをするのであろうかと不思議がる。翻訳しながら読むのでは疲れるから、もっとさっぱりした簡単なのがよいというので、「トゥールの司祭」を開いて読んでゆく。そして、そのうちに彼は、はたと逡巡する。「これが女性の大集会の毛細管を通じて投げ出される文句の実体である」これでは生物学の講義でも聞いているようだ。何故かくも難しい述語を、百科辞典式に書き並べるのであろうかと歎息する。更に、その人は、業々しい書き起し[#「業々しい書き起し」に傍点]に煩わされ、乱彩[#「乱彩」に傍点]ぶりに悩まされ、詩人バルザックの難渋さに苦しむのである。そして、最後にその人はこう云うのである。「私が誰かの作品を読むというのは、教養が高くひとと会談する術をわきまえている人を私の家へ入れるのと同様である。ところでバルザックさんは、技芸辞典かドイツ哲学史提要か自然科学辞彙かのようなもの言いをする。たまたまそういう暗号のような言葉を使わない時には、猥らなことを言ったり大声で叫んだりする労働者のバルザックが姿を見せる。それからとうとう芸術家のバルザックが出て来たかと思うと、それは多血質の、乱暴な、病的な男で、さまざまの観念が、盛り沢山な、凝りすぎた、埒外れな文体に盛られて、やっと外に飛び出すという状態である。このような人は、ひとと談話するすべを知らない人だ。わたしの家の客間《サロン》にはそんな人は入れない。」
 テエヌとサント・ブウヴの批評家としての歴史における価値の相異は、まさにこれから先に発展する二様の見解によってはっきりと決定されるものである。サント・ブウヴは、大体同じ批評の後バルザックがせめて古典文学の文体について一つ二つの法則を知っていたならば少しはましであったろうにと論をすすめ、ペトロニウスを引合いに出したりして前世紀文学の文体の中庸と新古典主義時代の内容とを求め、ジョルジュ・サンドと比べて「マダム・サンドがバルザックよりも大きな確かな、力強い作家であることは今更言うまでもない」という風な我々の理解力ではうけがいがたい評価にそれ、反動的泥濘に陥ってしまった。
 テエヌは、以上のようにバルザックの文体に対して与えられる可能のある殆どすべての非難を引き出した後、そのような「全くフランス的な、古典主義的な判断は、十七世紀のフランス人の生活と精神の習慣から来ている判断である。」と解釈した。十七世紀の人々がそこに文化の中心を置いて生活していたサロンと、その時代の社交界の人々が「優美な代数式を語るような」順序や語源や、比喩の釣合いに絶えず制御されていた分析的な考え方等は、バルザックが生きて、愛し、苦しんで、金銭のために焦慮しつづけた十九世紀前半の社会生活の現実の中に既に跡かたもないものである。サロンの代りにイギリス流のクラブが出来ている。花やピアノの飾られた部屋ででも話すことは「政治、鉄道、それから文学のことを少し、事務のことを沢山」男は男だけかたまって、しかも夕飯後は喫煙室へ行って話すようになって来ている。「二十五六を越えた男でダンスをする者が何人あろうか。そして実際それも道理である。」バルザックが実際社会に日夜接触する男たちは、自身の没落によってか、さもなければ成り上りの野望の成就、そのための陰謀、偽善、買収のために疲れ、心配気で、本当の笑顔を失った男たちばかりである。テエヌは十九世紀初頭の「パリは全世界のあらゆる思想が詰込まれ、精錬された貯蔵所であり、蒸溜器である」ことを認めている。「かくの如く神経過敏になり、かくの如き環境に育って、彼等はいかなる種類の思想にも喜びを感じることが出来、しかも奇抜な形をとった思想をしか認容しない。」「バルザックが、その怪奇癖と、衒学趣味と晦冥で誇張的なその文体とで、以上にのべた近代人の趣味が要求するものの猶上を行っていることは遺憾ながら私も認めざるを得ない。しかし、それは問題でない。バルザックの聴衆はそれ独特のものであり、そのものとして申し分のないものであり、他とは別箇のもので、他と同様に生存の権利を主張し得るものである。」そし
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