、現実の社会を夥しい小説の中に再現しようとしたのであった。
一八三一年から終焉の二年前、最後の作となった「現代史の裏面」に至るまでに書かれた大小百余篇の作品の箇々についての穿鑿は、更に適当な研究者の努力に俟たなければなるまい。何故なら、「人間喜劇」の登場人物とそのモデルと、人物再出をしらべるだけでも、バルザックの場合では、普通の作家の全生涯の研究以上の労力を必要とするからである。私共は、ここで少したちの違った一つの仕事に従事したいと思う。或る意企をもって、私達は再び、同時代人によってバルザックに加えられた非難と焦点をなしたこの大作家の雄大な卑俗さと、彼の文章についての難点に立ち戻るのである。
「従妹ベット」を、先ず開こう。これは一八四六年、バルザック四十七歳の成熟期に書かれたものである。
この小説は「千八百三十八年の七月の半頃」新型馬車「ミロール」に乗って大学通りを走っている、でっぷり太った中背の男の説明から始る。
初めの三行目から作者は自分の言葉で服装について一部のパリ人の抱いている常識を非難しながら、その男がやっととある玄関の前で馬車を下りると、もう直ぐそこでとびかかるようにパリの門番の本性について説明する。引つづいて読者はひどく精密であるが全く無味乾燥なユロ男爵家の系図の中を引きまわされるのであるが、普通の読者は、その数千字を終り迄辛棒して結局は、最初の行にあった四字「ユロ男爵」だけを全体との進行の関係で記憶にとどめるような結果になる。
やっと客間のドアが開けられた。我々の目前にユロ男爵夫人、その娘オルタンス、その娘に手をひかれた老嬢ベットが現れる。
忽ちベットのまわりをぐるぐるまわってその服装の細を穿った説明に絡んだ作者の解釈。客間の古び工合の現実的な観察。その客間で、「昔は杏ジャムやポルトガルの濁酒《どぶろく》を売った小商人」今ではブルジョア化粧品屋でユロ男爵の息子にその一人娘を縁づかせている五十男のクルベルが、安芝居のような身ぶり沢山で、而も婿の生計を支えてやらなくてはならぬ愚痴を並べ、借金の話、娘の持参金についての利子勘定のまくし立てるような計算と全く渾然結合して、道楽な良人のために悲運にある貞潔なユロ男爵夫人に厚顔な求愛をする。
ユロ男爵夫人の目下の全関心と母としての宗教的な努力は父親の放蕩で持参金も少ない一人娘オルタンスを、身分のつり合った家柄の者と結婚させたいという最後の苦しい願望に集注されているのである。
クルベルは、夫人をしつこく口説くのであるが、その、あの手この手は悉く男爵家の陥っている経済的困難を中心とする脅威であり、誘惑である。色と慾とに揺がぬ根をはった強い色彩と行動との中にいつしか読者はつり込まれ、
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「若しも私が貴方のために操を破って居りましたら、クルベルさん、それでも貴方はそのようなことを仰言ったでしょうか?」とユロ夫人はクルベルの顔を見詰めながら云った。
「そんなことを云う権利はなかったでしょうね、アドリーヌさん」とこの奇妙な恋人は男爵夫人の言葉を遮りながら頓狂な声を出した。
「私のこころにさえ従っていれば、あなたは私の財布の中からオルタンスさんの持参金を出せますからね……」
さて、その言葉を証拠立てる積りでもあったのか、脂肪肥りのクルベルは、床に膝をついてユロ夫人の手に接吻した。
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この活々と緊張して、而も落付き、社会の裏面を露《あば》く惨酷さでは骨髄を抉っている描写は、消えぬ絵となって我々の印象に焼きつけられるのである。同時に、何か漠然とした驚きが引き起こされる。バルザックは、何と普通のような顔つきで、この醜怪と苦痛とを描いているだろう! と。
読み進んでゆくうちに、読者は到るところで、しっくりはまりこめない凸凹した説明にぶつかったり、そうかと思うと、思わず作者バルザックに対する疑いを喚び覚まされるような大仰な、出来合いの大古典時代めいた形容詞を羅列した文章に足を絡まれる。非常に古代美術愛好家風な、衒学的な、却ってそれが一種の野卑を感じさせる婦人の美の説明が我々を間誤つかせていると思うと、それはいつしか十九世紀のブルジョア勃興期にフランスで、そしてイギリスでも所謂下層階級の出身の美しい娘がどんな道行で没落に瀕したか、或は成り上りの貴族夫人となったかという社会的な過程を熱のある筆でくまなく我々の目前に展開していることを知るのである。
野蛮人や下層階級の心理について独断的な傾きのつよい作者の説明に対して極めて自然に、そして正当に後代人である我々の心に起る反撥。唐突に持って来て、ギリシャ神話中の名と並べてつかわれている自然科学上の様々な用語が読者に与える寧ろ子供らしい落付かなさ。我々は希望するしないに拘わらず、生粋の放蕩者
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