自身の優秀な批評家としての感受性でバルザックの雄大さ、独特性、芸術上の追随を許さぬ成果を認めてはいるが、決してそれ以上の打ちこみ方でバルザックを評価する力量をもっていなかったことは明らかである。バルザックの死に際して一八五〇年の彼の書いた追悼の文章の調子は我々の心にそのことを直截に印象づけるのである。同時代の作家たちは、次第にバルザックの文学業績の規模の大さ、主題の独特性は感じつつも、彼の時代おくれな正統王党派ぶり、貴族好み、趣味の脂っこい卑俗さ、そして、小説の文章が、格調もなければ、整理もされていず、時に我慢ならなく下手であるというような一応当時の教養ある階級を納得せしめる理由で、ロマンチストたちの目から見れば一人の文学的成上りと映ったであろうバルザックは、つれなき仲間はずれの境遇にあったのである。現にサント・ブウヴなども外国にまで高まったバルザックの名声に関して、如何にもデリケートに皮肉な言いまわしで解釈をほどこしている。バルザックがヴェニスやハンガリー、ポーランドやロシアなどで熱烈に愛読され、社交界の貴婦人、紳士がバルザックの作品に現れた人物の名を名乗ってその役割りに扮そうという言いあわせをして或るシーズンはランジェー公夫人だのラスティニャクが社交界に現れたということにふれ、サント・ブウヴは書き添えている。「こういう距離のあるところでは、バルザックの作品を近くで見た、気難しい人の心を完全に捕えかねる空想的な部分というものが目に映らなくてそれが却って人の心を惹きつける魅力を増すということになるのである」と。サント・ブウヴが、「人間喜劇」はロマンチシズムの本家のような役割をもってイギリスでも、ゲーテのドイツでも鑑賞されたことにふれず、その頃のフランス文化の到達点と比較すれば殆ど未だ近代啓蒙時代にあったロシアやハンガリーなどという土地でだけバルザックが流行《はや》っているように書いているところに、今日の我々の洞察は、文字には語られずに発動している文学的同時代人のバルザックに対する感情の機微を見出すのである。
「ユーゴオが恰も文芸復興時代《ルネッサンス》の大画家のように」堂々たるノォトルダムデシャン街の家で、美しい妻と彼を崇拝する門人達にとりかこまれて創作している時、「バルザックは唯一人その書斎で筆を走らせていた。」当時の名声高い作家バルザックの日常にふれてブランデスは濃やかな情感をこめて記述している。「彼は殆ど睡眠をとらなかった。」明方まで仕事をつづけて「少しく運動の必要を感じ、書いた原稿を手にして自分で印刷屋へ足を運び、校正の仕事に携った。それも彼が常に八回乃至十回の校正を必要としたからである。」バルザックは自分の文章に自信がなかったばかりでなく、「彼は最初ただ小説の大体の構図だけを書き、細かい点には、その後で次々に筆を加え」るという我流の仕事ぶりを持っていた。そのためにバルザックの作品の校正は植字工にとって恐ろしい仕事であったばかりでなく、作者自身にとっても驚くべき大仕事であったらしい。「数時間後、炯々たる眼光のずんぐりした男が、着物を乱し、でこぼこ帽子をかぶって印刷屋から出て行った。通行人は一人ならず彼を天才であると察して恭々しく挨拶をした。」毎夕六時になると、有名なトルコ玉のステッキと伊達者ぶりの服装でバルザックは愛人である貴婦人のサロンに現れ、オペラの棧敷に現れ、時には美術骨董店へ立ち現れた。「斯くの如く一日は極めて速かに流れ、この精力的な労働者は僅かの安眠を貪るべく寝床に就くのである。」
ブランデスは、然し、この記述で計らず自身の道徳律の領域に描写を止めているのは面白いことである。バルザックの一日の内容にはもっともっと他の重大なことがあった。即ちベルニィ夫人やハンスカ夫人のように会わずに暮している過去の、或は未来の、彼が「会わないうちから夢中になっている」愛人たちに向って熱情の溢れるような手紙を書くこと。及び「彼の想像力は無尽蔵に次から次へとその手段を思いつかせた」やり方で押しよせる高利貸を宥め、債権者を納得させ、勘定書をもって来た出入りの商人から却って金を借りる等という困難きわまる芸当。更に出版権にからまる絶え間ない訴訟事件があり、代議士立候補のための、進んでは大臣になるための政見を発表し、しかも時々バルザックは一八二五年の破局にもこりず熱病にかかったように大仕掛の企業欲にとりつかれ、サルジニアの銀鉱採掘事業や、或る地勢を利用して十万のパイナップル栽培計画を立て、新式製紙術の研究にまで奔走したのである。実にバルザックの生活は目もくらむばかりの熱気に顫える一大機関のようであった。彼は真に我々を驚歎させ又沈思させる意志と忍耐力と情熱とで、その生活の波濤をよく持ちこたえ、芸術活動は修飾ない巨大な労働であることを理解し
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