している。彼は、この二つのものの中に、彼の大きい真情を傾けて敬愛しているベルニィ夫人と母までをこめて、考えねばならぬ端目になった。ブルターニュの昔からの知人の家へ暫時息ぬきに出かけた。パリへかえってカシニ街にどうやら身を落付け、バルザックは再びペンをとりはじめた。負債と負債にからまって押しよせる一軍団の敵に立ち向うために、彼は只ペンの力だけが真に自分にのこされた最後の武器であることを自覚したのである。
 この年、一七九九年のブルターニュの反乱を題材とした「木菟党」を発表し、バルザックはこの小説で初めて自分の本名を署名した。つづいて同年「結婚の生理」を完成し、作家オノレ・ド・バルザックの名は漸く世間的に認められ、新聞雑誌に喧伝せられるに到った。
 翌年「カトリーヌ・ド・メディチ」「恐怖時代の一插話」などとともに発表された「※[#「鹿/(鹿+鹿)」、読みは「そ」、第3水準1−94−76]革」は、その生涯の最後の年にあったゲーテの注意をもひき、バルザックの作品は外国にも認められはじめた。日に十七八時間もぶっとおしの労作、彼の「牡牛のような健康」ではじめて可能な労働をつづけて、以来二十年間年々四五篇以上の生産をもつバルザックの作家活動が開始されたのである。
 これらの文学的成功は、幾分でもバルザックの経済危機を緩和したであろうと誰しも推察するのであるが、彼の場合実際生活は決してそのように内輪に運転されなかった。一部をやっと返済したかと思うと、一方では負債の増大するようなことばかりが起った。自身、いつ返せるか当のない借金の山を負いつつ、ヴェルデやサンドーの借金の証人に立ったり、いかにも彼らしく、まだ書いてもない小説からの収入までを算用して遣いすぎをやったり。特に一八三一年、派手で鳴らしたカストリィ公爵夫人と激しい恋に陥ってからの波瀾多い五年間、バルザックの大胆不敵なやりくり生活は、兄を信頼しきっている妹をも恐怖させる程度に達した模様である。
 出版書肆からの手形の書きかえでやっとやりくっているのに、バルザックは馬を数頭、馬車を二台も買って、自分は金ボタンのついた青い服を着、貴族風な長髪を調え、手には当時すべての漫画に添えて描かれたトルコ玉を鏤《ちりば》めた有名な杖をもち、貴族街サン・ジェルマンなどを歩く時には、イギリス風に仕立てた侍僮《ページ》を背後に引き倶して歩くという有様であった。
 性格的にはベルニィ夫人と全く反対のカストリィ公爵夫人の気に入るために、バルザックは数県から王党派代議士として立候補し、いずれも落選した。所謂高貴な骨董趣味に溺れて莫大な蒐集をはじめたり、邸宅を構えようとしたり。総ては金のいることばかりである。
 この期間は、今日になって眺めるとバルザックのさして永くない生涯にとって、最も急テムポに彼の政治上の王党派的傾向とカソリック精神とが堅められた時代であった。然しながら、この頽廃的で奢侈な公爵夫人との恋愛とその感化によって恐るべき浪費をし、益々王党派、カソリック的傾向を強固にされながら、而も一方においてはその金のやりくりともぎ取りのため、壮年に達したバルザックが益々創作に身をうちこみ、益々刻薄な社会の現実に突き入ってダニのような高利貸、卑屈傲慢な大小官吏、気骨なきジャーナリスト、企業家等と愈々猛烈露骨な闘争を繰返さなければならなかったというのは、何たる意味深い歴史の必然であろう!

 大体、過去においてオノレ・ド・バルザックについて書いたほどの人で、彼の貴族好みに現れた趣味の低俗さを指摘しなかった伝記者、評論家は一人もなかったと云っても過言ではないであろうと考える。
 頻繁で噪々しい笑いの持ち主、その頃流行の優雅な身のこなしとはまるで逆にずんぐり太ってさながら「愉快な野猪」めいた農民出のバルザックが、仰々しい貴族まがいの身なりに伊達者ぶって、例のトルコ玉を鏤めた杖をつきつつ、ダブランテス公夫人やカストリィ公夫人の後から得意気にオペラの棧敷へなど現れた光景は、今日の我々の想像においても相当色濃い諷刺画である。ましてや同時代人の目に、そのような傍若無人なバルザックの姿は、最もよい場合で意味ありげな微笑を、更に嘲笑と悪意ある侮蔑、嫉妬を挑発したということは理解される。バルザックが自分で「バルザック的狂乱」と形容した生涯について、実に暖い理解と評価とをもってその研究を書いたブランデスでさえも、バルザックには、その真実に近づこうとする偉大な情熱、人間を描き得る驚くべき天才にかかわらず、「『教育と素養』とも言うべきものが欠けていた」と言わざるを得なかったのである。
 仕事ぶりも、恋愛も負債も、すべてに所謂度はずれなバルザックの生活ぶりに圧倒されて、同時代は勿論後世にも或る種の人は、バルザックを一種の人の好い俗悪な誇大妄想者であ
前へ 次へ
全17ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング