クをカストリィ公爵夫人のサロンに紹介し、そこに集るド・ミュッセやサント・ブウヴなど当時の著名な文学者に近づけるための努力をした。十数年後ハンスカ夫人に宛てた手紙の中でバルザックが当時の優しい回想に溺れながら述べているように、困窮の中にある「人間を極度の卑屈から守る自負を」バルザックの心に植えつけたのも彼女の激励のたまものであった。ベルニィ夫人は、自分が両親を通して知り得た宮廷生活の内幕、とって置きの、歴史家には知られていない事件などを作品の材料として話し制作を刺戟したばかりではない。百姓バルザの精力と野心とに溢れた孫息子が、少年時代から憧れ通してしかも接近し得ないでいた貴族趣味、教養、貴族的気位、カトリック教の神秘の霧で、ベルニィ夫人は自身の逞しい素朴な愛人をくるみこんだのであった。
 ベルニィ夫人の生活は、その時既に新興ブルジョアと成上り貴族によって経済的に圧迫された貴族、人知れずやりくりに心を労し「小作人、家政のうんざりする細々したこと」に自ら煩わされなければならない、落魄に瀕した旧貴族階級の典型のようなものであったらしい。それにもかかわらず、社交界の伝統的な重い扉は、まだ艷を失わぬベルニィ夫人の手によってバルザックの目の前に開かれた。
 若い情熱的なオノレ・ド・バルザックは社会的には古く、而も彼の感覚には新しかった社会層との接触によって殆ど陶酔的に亢奮したらしく見える。二年前彼が二十の時、レディギェール通りの屋根裏部屋から愛する妹のロオルに切々と訴えた二つの希望「有名になって、愛されたい」という大きい希望に今やもう一つの、更に困難で、投機的ないかにも当時らしい性質をもった大望が加えられた。それは、「自分も金持になって[#「自分も金持になって」に傍点]、貴族になりたい[#「貴族になりたい」に傍点]」という願望である。一八三〇年前後のパリがそれを中心として二六時中たぎり立っていた「成上り」の慾望と焦心がトゥール生れの彼をもはっきり掴んだのであった。
 バルザックは、熱中して金儲けのことを考えるようになった。貴族になるどころか、満足に自活も出来ない当時の現状は彼を苦しめた。どちらかといえばバルザックより遙に実際的であったベルニィ夫人も、そのことは現実の必要な問題として、相談にのることを拒まなかった様子である。金を儲けなければならぬ。しかもバルザックは窮局において自分の欲求を充す最も有力な土台となるのは自身の芸術上の成功であることを直覚していたから、落付いて本当の文学的作品を書く余裕をつくるためにも、彼はたまらなく金が欲しかったのである。
 想像力と思いつきとに溢れたバルザックの頭は、或る特殊な出版事業を思い立った。それは、フランス劇文学におけるアポローであるモリエールと十七世紀の大古典派の宝ラ・フォンテーヌの作品の美しい絵入り本の出版とその売捌きである。一八二五年、ロシアでは有名な十二月党《デカブリスト》の反乱が悲劇的終結をとげた年、愈々この出版事業にとりかかった二十六歳のバルザックは、自分から活字屋になり、印刷屋になり、本屋にまでなって悪戦苦闘したのであったが、この金銭争奪で未熟な事業家バルザックがその一身に受けた打撃は恐ろしいものであった。ブロックをつくってそろそろと、しかし確実に孤立した小資本の企業を食い殺す大資本企業家の悪辣な術策がバルザックを破滅させた。フランス全国の同業者等は、この唐突に現れた資本も少ない若年の一出版業者が、疑なく時流に投じるであろう出版計画をもっていることを見極めると、共通な悪計によって結束した。一万フランの資本をかけて出版した本の売上げが、一年にやっと二十部という目にあわした。たった三年の間に、十二万フランの負債をしょったバルザックは、遂に力つきて、美しい出版物を紙屑のような価で投げ売りにした。その時を計画的に準備し、待っていた同業者共は、労さず数万の利益を得たのである。
 この恐るべき三年間を始りとして、バルザックは終生近代資本主義経済の深奥のからくりにふれざるを得ない立場におかれるようになった。彼は金の融通の切迫した必要から銀行の組織に精通し、パリじゅうの高利貸と三百代言を知り、暫くではあるが公債のためにサン・ラザールの監獄へぶちこまれた。再び狼の爪につかまれぬためには、変名して手紙を受とったり、住居を晦《くらま》したり、辛酸をなめた。母親とベルニィ夫人の助けで一時は凌いだが、バルザックはこの破綻で「単に貧しい男となったのみではない。」「苦しい借金を免れ、母から借りた金を返すために生涯の間休息も安眠も出来ず働かなければならない」端目に陥ったのである。「経済の安易を求めて却ってその困窮を招いた」わけである。
 多くの伝記者は、バルザックが常に好んで「私の借金、私の債権者ども」と云ったことを記録
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