作家を直接活々とした創作活動にひき込む役には立たなかった。けれども、社会主義的リアリズムの世界的なスケールにおける今日の提唱は、決して文学における階級的主張を引こめたものではなく、それとは全く反対に、従前より更に高まった勤労階級の指導力によって、従前より更に広汎に、具体的に、政策的に、文学における階級的移行の可能性を捉えたものである。第一回全連邦作家大会の報告が、部分部分のやむを得ぬ省略を伴いながらも一冊の本となって既に現われている現在、総ての人の目に、このことは紛れのない実際の到達点として映っているのである。
 大きい過去の作家らしく、大きい矛盾に充ちたオノレ・ド・バルザックは不幸にも絵にまで描かれている彼の有名なダブダブと広い仕事着の裾の一端を「リアリズムは作者の見解如何にかかわらず現れて来るものであ」るという鉤をつかって引掴まれ、計らずも一九三四年の困難な日本に、リアリズムを十九世紀初頭のブルジョア写実主義へまで押し戻そうとする飾人形として、悲喜劇的登場をよぎなくされたのであった。
「人間喜劇」の作者が、エンゲルスによってその政治的見解いかんにかかわらず「フランス社会の全歴史をまとめ」た「過去現在未来のあらゆるゾラ」を凌ぐリアリスト芸術家とされていることは、一連の人々にとって、さながら彼等自身が、今日このように自明な歴史的段階を否定し無視し、文学から階級性を追放しようと欲する心持までを、エンゲルスの卓見によって庇護され得るかのような幻想を抱かせたのである。
 日本における現代文学の黎明は、明治十八年(一八八五年。マルクスの死後二年。トルストイは既に五十七歳に達して「イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・イリイッチの死」「クロイツェル・ソナタ」などを書いた年)春廼やおぼろ坪内雄蔵の「小説神髄」によって不十分ながら輪廓を示された写実主義の主張をもって始った。当時、春廼やは「彼の曲亭の傑作なりける八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて決して人間とは云ひ難かり」とし、小説というものは「老若男女善悪正邪の心のうちの内幕をば洩す所なく描き出して周密精到、人情をば灼然として見えしむる」ものでなければならず、而も「よしや人情を写せばとて其皮相のみを写したるものはいまだ之を真の小説とは言ふべからず。其骨髄を穿つに及び」はじめて小説は小説としての本質を具えるものであ
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