」においては「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」をも含む自分の過去のすべての芸術作品を否定し、それ以上のものを望んだのであるが、「彼がそれによって立っていた思想が間違っていたのと、彼が理想というものを社会の現実的な発展以外のところから取って来たから」破綻したこと。「これに反してバルザックは自分の観照の世界に満足してそれから一歩も外に出ようとしなかった」ことを指摘している。書簡は更に不自由そうに「哲学者は世界を様々に解釈して来た、しかし重要なことは云々というフォイエルバッハ綱領の中のマルクスの言葉はそのまま芸術の場合にもあてはまります。芸術はこの世界をあるがままに描写していればよいのではありません。この意味で人及び芸術家としてのトルストイは到底バルザックなどの及ぶところではないと思います。」と、現実観察の急所にふれているのである。
一八三〇年七月革命後、常に蝙蝠《こうもり》傘をもって漫画に描かれた優柔不断のルイ・フィリップがブルジョアジーの傀儡《かいらい》君主として王位についた時、一層凡庸化し、銭勘定に終始する俗人共の世界に反抗して、ユーゴー、ド・ミッセ、デュマ、メリメ、ジョルジュ・サンドなどは、いずれもそれぞれの形で日々の現実から離脱しロマンチシズムの芸術にたてこもった。或るものは異国趣味の裡に、或るものは歴史小説の中に、ジョルジュ・サンドは彼女の穢れない女性の霊魂の描写の中に。法律学校を出たきりのバルザックばかりは、他の作家たちのようにそれにたよって現実から遁走するためのどんなギリシャ芸術の蘊蓄も古文書に対する教養も持合わせていず、天性の豊富な想像力が活躍するとなれば、それは必ず極く現実的な内容しか持てなかったという事実は、何と意味深い示唆であろう。成程バルザックは、沢山旅行をし、サルジニアや南部ロシアへまで出かけたこともあった。が、それはゴーチェが異国情緒を求めてスペインへ行ったのとはちがい、サルジニアに在る銀鉱で儲けようと思いついたからであったし、南露には後に結婚した彼の愛人ハンスカ夫人が三千人もの農奴のついたそこの領地へ行っていたからである。
バルザックは、ユーゴオのようにギリシャ悲劇の教養を土台にして、その作品に美と獣性、淫蕩と清純な愛、我慾と献身という風な二元的な対位法を使い、ロマンティックな荘重さ、熱烈さ、高揚で、文体を整えることも出来なかった
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