写することではない。自然を表現することだ!」「我々は事物の精神を、魂を特徴を掴えなくてはならない。」芸術家は「自然が真裸になってその神髄を示すのやむなきにいたるまでは根気よく持ちこたえ」なければならぬ。そして「線というものは」(文学での言葉は)「人間がそれによって物体に落ちる光の効果を説明する手段だ」とバルザックは考えた。或る芸術の中に外観がよく掴えられ、本当のように描かれている。「それでいい。しかも其では駄目だ。君達は生命の外観だけは捉える。けれども溢れ出る生命の過剰を現すことが出来ない。」バルザックが、以上のような規準に従って現実ととり組み、自身の文体をも構造しようと努力した態度の内には、今日においても学ぶべき創作上の鋭い暗示、真の芸術的能才者の示唆を含んでいる。それだのに、バルザックは何故作品の実際では、あのように量的には未曾有の技術の鍛錬にかかわらず、終生混乱しつづけたのであったろうか。どこから、あの全作品を通じて特徴的な、リアルで精彩にとんだ描写と※[#「女へん+尾」、第3水準1−15−81]々《くどくど》しく抽象的な説明との作者に自覚されていない混同、比喩などにはっきり現われている著しい古典趣味、宗教臭と近代科学との蕪雑なせり合い、現実的な観察が次第に架空的誇大的な類型へ昇天する奇怪な道ゆきが生じたのであったろうか。
 サント・ブウヴのような批評家は、その原因をバルザックの想像力の横溢とか制御のない熱情とかに帰しているが、それは皮相な観察であると思われる。バルザックは寧ろ、金銭争奪を中心とする社会的森羅万象の只中に日夜揉まれて、自身の大胆な手足から頸根っこまで現世的紛糾に絡みつかれつつ、小説の上にその社会的人間関係を再現しようとするに当っては、自身の上にとびかかって来る雑多な印象、観察、観念の間に、はっきりした計量が出来なかったように思われる。バルザックは、パリの大群集に自身もその一人として混って、笑顔をもって行われ、内実は血を噴くような悪計、音もなく新聞にもかかれぬ深刻な悲劇が、二六時中起って消えつつあるのを経験し、総てそれらの悲喜劇こそは「万人の渇望する金銭」をめぐっての事件であることをバルザックは看破した。然しながら、彼は金銭のそのような魔術性の根源を見破る力はなかった。それどころか、最もその魔術に魅せられたパリにおける地方人の一人であった。バルザ
前へ 次へ
全34ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング