カチーフはハンカチーフよ、愛するオセロ! では、わたしたちの愛を護りぬきましょう、と、オセロのすべての勇猛を、自分たちの愛のまもりに動かす人間らしい誠実さがなかったろう。ルネッサンス時代の若い貴女デスデモーナは、お父様、わたくしはあの方と結婚しとうございます、というところまで自主的になっているけれども、その夫婦としての愛のなかでは、やっぱり歴然と、絶対の権力、生殺与奪の力をふるうものとしての良人しかみていない。恐慌におちいったデスデモーナの心理の中でオセロの黒ささえ一層の畏怖となってゆくところも、考えさせる。
『テアトロ』という雑誌にソヴェト赤軍劇場が、シェクスピアの「じゃじゃ馬馴し」を上演することが書かれている。この場合、一般人間性の解放というところに力点をおいたり、男女平等というところにだけ力点をおくものとすれば、幾等かのナイーヴであろう。じゃじゃ馬は甘やかしと媚《こ》びと屈伏では、決して馴らせるものではない――条理に立つ分別に立ちもどらせられないものだ。それは、のりこなされることが必要である。女だけに我《が》をとおすには限りがあることを、ぴしり、と教えられる必要がある。この観点か
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