多くを知らなかったのである。p.261
◎われわれの認識の豊かさに徴して明かな通り、われわれが過去に比して感情の一層分化した最初の人間である、という暗示をわれわれに最初に与えたのが 彼であったのである。
 ×しかし時を経て、今日この不幸な分化の終焉はせまっている。再び人間は統一へ、霊と肉との調和をもってしかも休止し、妥協することない活動へ向う時代にさしかかっている。
 ドストイェフスキーの考えかたをふえんすれば
「現代は個々の精神が彼の時代におけるような循環的混沌の中に上下していられないほど、精神の闘争力の源泉としての調和、性の一致を求め必要として来ている。それだけ限界は日常から拡大され、群としての人間精神の類型との対決の時期に立ち到っているのである。
  広津和郎の「懐疑に耐える精神の強靭性」の破たん
 そういう統一や調和が単純[#「単純」に傍点]に見えるひとは、そのような統一や調和をもって 精神が立ち向わなくてはならない現代の地球的混沌の本質がわかっていないからにすぎない。
 文学の課題はここにある、誰が、どのような作品で、現代がこのような精神によって拓かれるべきことを暗示するであろうか。ドストイェフスキーが前世紀の終りに、彼のロシアの混沌を身辺のうちに反映して示したように。」

     神の苛責
       神は生涯私を苦しめた。ドストイェフスキー

○われわれの内部と外部との神とその復活 このかくされた神がドストイェフスキーの全作品の問題である。p.271
○ドストイェフスキーにおけるあらゆる論議は、露西亜の思想と神の思想とに終っている。――そしてわれわれの見るところでは この二つの思想は彼にとって同一物なのである。p.271
○ドストイェフスキーの神は、肯定と否定とを同時にもつ対立の始祖であり、従って不安の原理だからである。p.272
○彼は神を安静として夢みたのに、しかも見出したのは矢張り火としてであった。p.273
○つねに逆に還り、徹底的な対照になり切っている作家ドストイェフスキーは信仰の必要をとき 他の誰よりも激越にそれを主張しているが――しかし彼自身は信心をもっていないのだ。p.276
◎無信仰の十字架に釘づけになった彼は民衆の前に正統派の教えを説き、智識は分裂し燃焼するということを知っていたので これを抑圧し、そして聖書に即した厳格な農民の信仰に、幸福を与えるような虚言を説教したのである。p.277
◎彼は宗教の問題を一種の神性の狂信を与えている国家の問題に移す。そして、彼の生涯の最も真摯な告白の中で「君は宗教を信じているか」という問に対し 極めて実直な奴隷のように「僕はロシアを信じている」と答えるのである。
 なぜなら ロシア、それは彼の避難所であり、彼の救済だからである。ここに来て彼の言葉はもはや分裂ではなくて 信条《ドグマ》になる。神は彼に対して沈黙してしまった。だから 彼は自己と良心そのものとの仲介者として一人のキリスト、新しい人間の新しい告示者、ロシアのキリストを創造したのである。p.278
○彼のこの救世主の文書は――暗黒の印象を与える。p.279
 笞のようにビザンティンの十字架を手にした極悪な狂信的な中世紀の僧侶、恰もそんな風に彼は政治家、宗教的狂信者としてわれわれに向って来るのである。p.279
○口角泡をとばし、手をふるわせて彼はわれわれの世界に悪魔祓いをするのである。p.279
○ひとりロシアだけが正しく――反ヨーロッパ的、アジア的 蒙古的 ダッタン的であればあるほど、それだけ正しいのである。保守的 退嬰的 非進歩的 非理知的 偏狭固陋であればある程、それだけ正しいのである。大言壮語家! p.281
○理性よ、下れ! ロシアは矛盾なく 公言される信条《ドグマ》である。「人はロシアを理性をもってではなく、信仰をもって理解しなければならぬ」p.281
○狂妄な帝国主義は驕傲を僧衣に包んで「神の御意なり」と叫ぶのである。
○先ずもってわれわれヨーロッパの世界は、この新しい神の国、ロシアという世界国家の中で崩壊しなければならず、然るのち初めて救われるのである。文字通り彼は云っている「あらゆる人間は先ずロシア人とならねばならぬ」と。しかるのちはじめて新しい世界は始るのだ。ロシアは神を荷える国家であり、最初先ずそれは剣をもって世界を征服しなければならない。しかるのちにそれは初めて人類の「最後の言葉」を告げるであろう。この最後の言葉とは即ちドストイェフスキーにとっては あの和解を意味するのである p.282

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 ここにあらわれているドストイェフスキーの矛盾と、不思議な予言の美しさ。最後の言葉=彼にとっての和解は、とりもなおさず 彼自身制御し得なかった彼の芸術家の歴史性の
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