ツルゲーネフの生きかた
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)略《ほぼ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]
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 数年前、私がソヴェトから帰って間もない頃のことであった。或る日何年も会わなかった女の友達が訪ねて来ていろいろ現在のソヴェトでの女の暮しぶりについて話の末、その友達は不図思い入ったように、だけれど、一体ロシアというところは、昔から男より女の方がしっかりしていたところなのかしら、と云って小首を傾けた。
 私は、そんな片手おちのような疑問が何だか可笑しく、どうしてさ、と笑い、わけを訊ねたら、その女友達は遠慮ぶかい性質から、私なんかほんとに不勉強なのだが、と前おきして、ツルゲーネフの小説なんかを読むと、わたし何だかそんな風に思われるんですよ、と答えたのであった。
 昨今ツルゲーネフの名を又きくにつれ、私はその女友達の言葉を思い出した。そしてその短い言葉を含味するにつれ、素朴に表現されたその感想の中には、作家ツルゲーネフという人の生活なり当時の社会と彼との関係なりを今日のわたし達の目で理解する上に興味ある暗示がふくまれていることを感じるのである。

 イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・ツルゲーネフは、韃靼出の古い貴族の息子として一八一八年アリョール県の所有地で生れた。一八八三年、六十五歳の時脊髄癌を病ってパリで死ぬまで、ツルゲーネフは有名な農奴解放時代の前後、略《ほぼ》三十年に亙るロシアの多難多彩な社会生活と歴史の推進力によって生み出される先進的な男女のタイプとを、世界的に知られている小説「猟人日記」、「ルージン」、「その前夜」、「父と子」、「処女地」等において描こうとしたのであった。
 ブランデスは、ツルゲーネフが死んだ年非常に情愛のこもったツルゲーネフの評伝を書いた。その冒頭に「ツルゲーネフはロシアの散文家中最大の芸術家である」と云っている。
 ブランデスがその評伝を書いた時から今日まで、既に五十一年の歳月を経、しかも一九一七年以後には、人類の歴史がその一部を書きかえられた程、社会的に巨大な発展を遂げている今日、ツルゲーネフをロシア散文家中最大の芸術家とするには、当然多くの異論を生じるのである。
 しかしながら、ヨーロッパに於ける新しい社会運動の動力であったロシアを何かの形で世界に紹介したという点から見ても、ツルゲーネフは、当時オストロフスキー、トルストイ、ドストイェフスキー、ゴンチャロフ、ニェクラーソフなどと共にロシア文学史上の「七星」の一人と数えられただけの特色を持っており、規模も小さからぬ作家であったことは認めなければならない。
 初めて、ツルゲーネフが「猟人日記」を当時ロシアの進歩的雑誌であった『現代人』に発表したのは二十九歳の年であったらしい。大体、ツルゲーネフの少年・青年時代を生活したロシアの四〇年代は、ロシア解放運動史の上ではまことに意味深い黎明期であった。先ずツルゲーネフが七歳の一八二五年に有名な十二月党《デカブリスト》の叛乱があった。この少壮貴族・将校を中心とする叛乱の計画は一貴族の卑劣な裏切りによって悲劇的失敗をとげ、その後一時沈滞した解放運動は、四〇年代になるとモスクワ大学の研究会となって、再び若々しく甦って来た。ゲルツェン会とスタンケウィッチ会とがそれであった。ツルゲーネフは、はじめてモスクワ大学で勉強し、後、ペテルブルグ大学にうつり、ゲルツェン会の活動にも或る程度参加した。彼は、サン・シモンの今日から見れば空想的な社会主義を勉強した急進的学生として、特にロシア民族の発達のために農奴制廃止を熱心に主張した一人であった。
 一八四二年にゴーゴリが死んだ。その時、ツルゲーネフは極めて自然の感情の発露によってゴーゴリの功績を讚えた哀悼文を書き、それをモスクワの或る新聞へよせた。すると、日頃ツルゲーネフに目をつけていた官憲はその文章が不穏であるという咎で、ツルゲーネフを、ペテルブルグ要塞監獄へいれた。監禁は僅か一ヵ月であった。が、体の弱いツルゲーネフはすっかり打撃をうけ、しかも居住制限によってその後何年か自分の領地スパツコイエに釘づけにされるという不法の拘束をうけたのであった。
 やっと自由を恢復してから、ツルゲーネフはドイツやフランスへ遊学した。そして、再びロシアに帰って来はしたが、その時の彼はロシアを自分の生きて、闘って、而して死すべき場処として考えることは出来なくなっていた。貴族でなければ出来ないパリとロシアとの間の往復がはじまった。晩年の十二年間ツルゲーネフはパリから動こうとさえしなかった。二度と外国へふらつき出さぬようなものとして完全にロシアへかえって来たのはツルゲーネフが遺骸となった時であった。
 当時のロシア作家としては全く特殊なパリへの半移民的生活をもってツルゲーネフが一生を終るに至った動機は、抑々《そもそも》何であったのであろうか。
 ツルゲーネフは、そのことに関し回想記の中でこう書いているそうである。「私は自分の憎むものと同じ空気を呼吸することが出来なかった。それには性格の強さが足りなかったのであろう。わたしは敵に対してより強い打撃を加えるために、自分の敵から遠ざることが必要であった。この敵は私の目に一定の現象を備え、一定の名をもっている。――それはほかならぬ農奴制度である」
 これは彼の心持の真実の一面であろう。ツルゲーネフはゲルツェン会の伝統をもってニェクラーソフ、ベリンスキー等とともに西欧派に属するユートピア的社会主義者であり、当時のロシアよりも早く資本主義が発達しているヨーロッパ諸国、特にフランス・インテリゲンツィアの理想主義的解放論に深く影響されていた。その上彼自身が率直に認めている性根の弱さ、そして彼に関するあらゆる伝記者がツルゲーネフの進歩的なものに対する敏感さとともに特筆している意志の弱さ、優柔不断な気質などが作用して、彼は同時代の西欧派に属する芸術家、思想家でもニェクラーソフやベリンスキーがしたように、ロシアの中でツァーリズムの暗黒と日夜闘いつつ果敢に新しい時代を啓いてゆく仕事に従事することには堪えず、自身は遠のいてパリからの目で「ロシアの破船的状態」を憂わしげに観察し、そこから無限の努力を経て頭をもたげ新しい歴史を担おうとする若いロシアの男女のタイプを観察し、小説に描くことになったことも理解されるのである。
 ブランデスは、同じ評伝の中で、ツルゲーネフがロシア散文家中最大の芸術家となったと思われた理由をこう云っている。「それは彼等のうちで、彼が一番多く外国に住ったからのことであろう。彼が本国から齎した詩の泉は、永くフランスに滞在したことによって増されはしなかったが、それによって彼の芸術を硝子と額縁とに入れる術を学んだのである」と。
 この観察は、ツルゲーネフの生涯とその文学活動を理解するために非常に深く鋭い示唆を含んでいると思う。何故ならば、パリの半移民として獲得したこの術によって、ツルゲーネフは「ルージン」を、「その前夜」を、そして「父と子」、「処女地」などを書いたのであろう。が、全くその同じ原因によって、これらの諸作は当時ロシアの現実に生き、生長しつつあった真面目で急進的な青年男女のタイプを真に描いているものでないという猛烈な反対を各時代の先進分子から蒙ったのであった。

 特に有名な「父と子」のバザーロフに対する読者の憤激は深刻なものがあった。ツルゲーネフは、様々に弁明したが、新しい合理的な社会組織を探求する献身的な六〇年代の青年男女の理想と実践とを、一面的な観念的な解釈によって歪め、妙に不自然なものとしてバザーロフの中に鋳かためてしまったのは今日みても否定し難い事実である。ツルゲーネフは「父と子」とを外国にあって、手帳の上で人工孵化した。チェルヌイシェフスキイの「何をなすべきか」のように、身をもって六〇年代を生きぬいて書いたのではなかった。一八六〇年の或る日、ドイツを汽車にのって旅行していたツルゲーネフは、その汽車の中で一人のロシアの医者に会った。その若い医者との会話のうちに彼は或る独創的な新しい世界観の閃きを認め、深い興味を感じたことがキッカケとなり、バザーロフという人物を思いつき、ツルゲーネフは「バザーロフ日記」というものを拵えはじめた。毎日の生活の中で何か際立った印象をひき起した事件や人物があると、ツルゲーネフは、彼がバザーロフのタイプとして型をつけた一定の考えかたにはめこんで、批判し、書きつけて行った。
 ツルゲーネフ自身の毎日の暮しぶりとは関係なく、このような方法でこしらえられたバザーロフが、畸形的であり、漫画的なものとなったのは、さけがたい当然の結果であろう。「父と子」において六〇年代の溌剌たる青年男女をとらえようとしたツルゲーネフは、自分たちを現実主義者と名づけ、宗教、私有財産制、そこから生じる一切の不合理、暗愚と偽瞞をとりのぞいて知慧の光に輝く社会の共同生活を発見しようとしている若い急進的青年を「ニヒリスト・虚無主義者」という名で、批判したのであった。保守派、反対派は欣喜雀躍してツルゲーネフのそのよびかたを、それから適用するようになった。ツルゲーネフは最も急進的な作品を描こうとして、実際においては反動的効果に陥った。
 ところで、こんなにもツルゲーネフの一生にとって重大な意味をもっているパリは、何によって彼をそのように牽きつけ、魅惑したのであろうか? 果して、ツルゲーネフが回想に書いているだけがその全部の理由であったのだろうか。

 ここで、我々の前に、パリに住んでいる声楽家でありピアニストであり、作家ルイ・ヴィアルドオの妻であるヴィアルドオ夫人の存在が浮び上って来る。ツルゲーネフは彼より三つ年若いヴィアルドオ夫人が、ペテルブルグへ演奏旅行に来たとき知り合いとなった。このヴィアルドオ夫人こそ、「彼の半生以上をその傍に根つけにしてしまった」魅力の根源なのであった。既に一八四八年、三十歳のツルゲーネフは家庭の友としてヴィアルドオ夫妻とヨーロッパ旅行をやっている。その前年、ツルゲーネフに少年時代から沁々農奴生活の悲惨を感じさせた専横な女地主である母親が、外国で日を暮しているツルゲーネフに立腹して送金を拒絶した時、彼を助けて金を出してやったのは、ヴィアルドオ夫人である。
 ヴィアルドオ夫人の美と才能とに対する傾倒、崇拝、女としての魅惑に対する愛着はもとよりのことであったろうが、ツルゲーネフはこの中流出身で芸術家としての処世上の苦労も知っているヴィアルドオ夫人なしでは全く何をどうすることも出来なかったらしい。ツルゲーネフは実際的などんなことでも夫人に相談し、その処置については云われるとおりにした。彼は、恐らく勝気で賢くあったであろう自分の美しい支配者に悉く満足し、ヴィアルドオ夫人の舵とりにまかせた安易な生活の幸福に浸った。友達が世渡りの辛苦を訴えると、真面目に答えた、「僕がしているとおりにしたまえ、私は支配せらるるままにしている」と。
 これには流石《さすが》のブランデスも些か驚歎して、「純粋のスラヴ人で、感受性に鋭く、智的に多産でありながら、殆ど意志の力を欠いていた」ツルゲーネフであったから「彼は自分の生活に美しい支配者を得て幸であった」と云っている。
 今日の目で見れば、ツルゲーネフの顕著な特徴となっている意志の力の欠乏を一口にスラヴ的と概括することは出来ないことである。同じスラヴ人の同時代人には二十年の流刑に堪えたチェルヌイシェフスキーをはじめ、七〇年代八〇年代以降今日に至るまでに、人類の中で最も堅忍と不撓不屈の意力によって歴史を押しすすめた更に多くの誇るべき大人物がスラヴ人の中から出ているのだから――。
 ツルゲーネフは、このヴィアルドオ夫人にめぐり会うまでに、多くの女を知っていた。二十歳前後でベルリンにいた頃は、ある裁縫をする小娘といきさつがあって
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