何故なら、ツルゲーネフは、恋愛や婦人についての見解においてはどこまでも所謂西欧主義者である。フランスの一応恋愛を尊重するかのように見える習慣、婦人に対してつくす男の騎士道などというものを疑わず、その上に安住して、流麗な、傍観的態度でどっちかといえば甘い、客間で婦人たちに音読してきかせるにふさわしいような文章の作品を書いて行く。
 社会的な光に照して見れば、彼とヴィアルドオ夫人との結合にも、いろいろの問題がふくまれている筈である。然し、ツルゲーネフは生活的な力で例えばその点にさえ突こんで行こうとせず、謂わば当時のブルジョア的な社交界の調子の低い物の見かたに跟いて、起るべき自身の苦悶をやり過して暮している。
 芸術家としては最小抵抗線を行くものであるツルゲーネフのこの態度が、血気旺なトルストイを焦立たせたということは、実によくわかる。ツルゲーネフがヴィアルドオ夫人やその夫と共にパリの客間で「スラヴ人の憂愁」について語っていた時分、十歳年下のトルストイはセバストウポリの要塞で戦争の恐ろしい光景を死屍の悪臭とともに目撃していた。パリでトルストイに一生忘られない戦慄を与えたのは娼婦のあでやかな流眄ではなくて、ギロチンにかけられた死刑囚の頭と胴とが別々に箱の中にころがり落ちる時の重い響きであった。トルストイは作家仲間と酒をのみ、ジプシーの歌をききながらも、ツルゲーネフがそれを疑わず、それによって苦しみもせず平然としているばかりか、或る点では尊崇さえしている資本主義ヨーロッパ文明そのものに、猛烈な懐疑をひき起された。その文明にある酷薄な偽善を観破し、終生つきまとった苦悩に足をふみ入れている。
 女というものをも、トルストイはツルゲーネフの考えていたように、純情、献身、堅忍と勇気とに恵まれたもの、その気まぐれ、薄情、多情さえ男にとって美しい激情的な存在という風に理想化して理解してはいない。もっと動物的に、或は愚劣に、或は恐ろしく、美醜をかねそなえた具体的な人間の女性として把握している。
 水っぽいサロン的常識の埒を越えないツルゲーネフのそういう考え方にトルストイが癇癪を爆発させたであろう様子を想像すると、思わず破顔さえ覚えるのである。トルストイは、食いあき飲みあき懶怠にあきた上流社会の美しく装った男女が、馬車の中で、花園でする恋愛に一つの社会的腐敗の悪臭をかぎ出している。持参
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