て片方の肱から手の平を出してる。グルリとかこんだ者の中から誰か、しっかりその手の平に平手打ちをくわして、素早く引こむ。サッとみんなが同じように指一本鼻の先へおっ立てる。中から、誰が鬼か当てる遊びだ。
 ハンケチで顔を拭き拭き、わきから眺めてるうちに、信吉は興にのって、鬼に当った男の手の平をピッシャリやってヒョイと指を立てた。
「お前だ!」
 アグーシャをさした。
「違う」
「そうじゃないよ!」
「さァ、さァ、もう一遍だ」
 ピシャリ!
「そら、今度こそ当った! お前だよ」
 アンナをさした。誰かがキーキー声で、
「お前、どうしてきっと女が自分を打たなきゃならんもんときめてるんだ! 変な奴!」
「――騙すなよ、おい」
 伴《つ》れらしいのが、大笑いしながら、
「本当に、お前が当てないんだから仕様がないよ、サァ、目をつぶったり、つぶったり」
 計らず信吉はその鬼から煙草一本せしめた。信吉の手が小さくて、そのノッポーで感の悪い労働者には、男だと思えなかったんだ。
 金がかからない楽しみでだんだん活気づき、信吉たちは、いい加減くたくたになるまで公園中を歩きまわった。赤い果汁液《クワス》を二本ずつも飲んだ。ベンチに長いこと両脚をつき出して休んだ。
「さ、引きあげようか」
 河岸をブラブラ公園の出口に向った。
 信吉はとっくに鳥打帽をズボンのポケットへつっこんでしまってる。黒い髪をいい気持に河の夜風が梳《す》いた。
 不図《ふと》、何かにけつまずいて信吉は、もちっとでコケかけた。靴の紐がとけてる。
 河岸の欄干側へ群集をよけ、屈んで編みあげかけたら、紐が中途で切れてしまった。
 畜生! やっと結んで、信吉はいそぎ三人を追いかけた。
 ところが、大して行くわけがないのに、見当らない。信吉は、注意して通行する群集、日本の縞の単衣みたいな形の服を着てお釜帽をかぶった、トルクメン人までをのぞきながら逆行して来た。見えない。――
 フフム! 信吉は閉ってる新聞売店の屋体の前までさり気ない風でブラブラ行って、急に裏へ曲って見た。紙屑があるだけだ。
 あんなちょっとの間にハグレたんだろうか。半信半疑だ。
 信吉は、河を見晴すベンチの一つへ腰をおろした。
 もう水泳場は閉められて、飛込台の頂上にポツリと赤い燈がついてる。むこう岸の職業組合ボート繋留所の屋根には青色ランプだ。後を絶間なく喋ったり歌ったりして人が通るが、気がしずまって来ると河の漣《さざなみ》がコンクリートにあたる静かな音もきこえる。
「誰が鬼」で貰った煙草をポケットからひっぱり出し、隣の男に火をもらって、信吉はうまそうに吸った。
 何か後で云ってる女の声にきき覚えがある。振向こうとした拍子に、目かくしをされた。
 アグーシャ!……だが――、本能的に自分の目を抑えた女の手頸を握りながら信吉は考えた。太さが違う。そう云えば目の上にのってる両方の手だって、いやに小さい。
――若しか、……信吉は危く、
 オーリャ!
と叫びそうにした。そのとき擽ったく唇を耳のそばへもって来て柔かい息と一緒に、
「――当てて御覧。だあれ?」
「ああ、お前か!」
 信吉はがッかりして大きな声を出した。女はなお手で信吉の眼を抑えたまんま甘えて足踏みするような調子で、
「だれさ」
「わかってるよ」
「だからさ、誰だってのに」
「ええーと、アクリーナ」
 パラリと手をといて、ベンチをまわって来、信吉へぴったりくっついて腰かけた。
「――煙草もってない?」
 信吉は煙草を出してやった。紅をぬった唇をまるめてフーと煙草の煙をはいてる。アクリーナのしなしなした体つきや凝《じ》っと人を見る眼つきには、いやに抓りたいような焦々した気を起させるところがある。「鋤」工場の職場仲間だ。オーリャなんかと工場学校から来た婦人旋盤工だ。
 ジロリ、ジロリ見ながら信吉が訊いた。
「ひとりか?」
「――みんな先へ行っちゃった!」
 火のついたまんまの吸殻を河へ投《ほう》り、アクリーナは、
「ああくたびれた」
 肩を信吉の胸へもたせかけるようにして、小さい白粉入れをとり出した。蓋についた鏡をのぞきこんで脱脂綿の切れっぱじで鼻の白粉を直しながら、
「……お前の国にもこんな大きい河ある!」
「ある」
「公園あるかい?」
「あるさ」
「フーム。……ね、きかしとくれ」
 パチンと白粉入れをフタしながら急に勢こんでアクリーナがきいた。
「お前の国の女、奇麗かい?」
「奇麗なのも、きれいでないのもいらあ」
「……お前、何足絹の靴下もって来た?」
「絹の靴下?」
 ルバーシカ一枚の胸へぴったり若い女の体をくっつけられ少なからず堅くなりながら正面向いて返事していた信吉は、アクリーナの顔を見直した。
「何だね……絹靴下って……わかんねえよ俺にゃ」
「狡い奴!」
 クスリと笑って横目で睨みながら肩で信吉の胸を小突いた。
「支那の男みんな真珠の頸飾だの靴下だの持ち込んでるじゃないのサ」
「そりゃ支那人のこった。俺ら知らねえよ。俺ら日本から来たんだ」
「どっちだっておんなじさ。――お前んところに勿論あるのさ……フフフ」
 素早くのび上って、アクリーナは、信吉の顎のところへキッスした。そして一層しなしなした熱い体を信吉にすりよせた。
「どう? ある?」
 信吉が返事する間もないうちに、アクリーナは両手で信吉の両手をつらまえ、
「さ」
とベンチから立ち上った。
「行こうよ」
「……どこへだ?」
 捉まえた信吉の両手ごと自分の胸の間へたくし込んで囁いた。
「あっちへ……森へ――」
 アーク燈に数多い葉の表を照らされ菩提樹の下は暗い。落葉や小枝をピシピシ靴の下で踏みながらアクリーナが先へ立って茂みの奥へ奥へと行く。信吉の気分がそうやって歩いてるうちにハッキリとして来た。それと同時に遠方のクラリオネットの音が耳について来た。
「おい」
 アクリーナはサッサ歩いてく。
「おい」
「何さ」
「どこへ行くんだよ……俺行かねよ」
 アクリーナが立ちどまった。信吉は楽な気分になって、からかう気で、
「絹の靴下ねえから、行かないよ」
 妙な顔して、アクリーナがすたすたまた小枝を踏みつけながら戻って来た。ぴったり信吉と向いあい、首をかしげるようにして、
「……嘘云うもんじゃないよ」
 ――あんまり本気な調子だ。思わず信吉はアクリーナの顔を見つめた。森へ行こうと云った本心がわかった。絹靴下が欲しかったんだ。信吉は額に皺をこさえて頭を掻いた。
「……行かないの?」
「ああ。……養育料払う金もねえもん」
「……木槌野郎!」
 ツと信吉の前を抜けアクリーナは、片手で灌木の枝を押しわけ明るい道へ出てしまった。

        六

 信吉はズボンの皮帯を締めながら、クシャクシャな髪をして、隣の室へ出て行った。
 朝日が室へ射してる。
 寝台の上では、長年グリーゼルの大きな図体の下に敷かれて藁のはみ出した布団が捲り上げられたっぱなしだ。埃をかぶったまんま引っぱり出されてる藤づる大籠。カギのこわれた黄色いトランク。得体の知れないボール箱だの新聞包み。
 取り散らされた家財の横で床板がめくられてる。
 信吉はゆっくりそこまで行って、トントンと踵で嵌めこもうとした。
 嵌らない。
 窓前の油布のかかったテーブルに、グリーゼルがその上で食物を拵えてた石油焜炉とコップが置いてある。
 いつもは、通り抜けてばかりいたグリーゼルの室を、そっちこっち歩きまわって見た。
 昨夜信吉が「文化と休み公園」から帰って来たのは十一時過だった。
 果汁液《クワス》を飲みすぎたか、腹の工合が変なんで便所へ入って居睡りこきかけてたら、階段をドタドタ数人が一時に登って来る跫音がした。
 便所の傍を通って、信吉が出て来たグリーゼルの借室の戸をあける音がする。跫音は沢山なのに話声がしない。
 出て来て見て、信吉は一時に睡気を払い落された。
 室の入口に突立ってるのは当のグリーゼルだ。
 若い男が二人、寝台の下から乱暴にトランクを引っぱり出したり、寝台のフトンをめくったりしている。
 卓子からちょっと離れたところに、脊広を着た中年の男と絹織工場の女工で住宅監理者のヴィクトーリア・ゲンリボヴナとが立って凝っとその様子を見ている。
 信吉は閾のところで立ち止った。財産差押えに来たんだナ。そう思った。
 ところが、若い二人の男はトランクを開けて中を検べるとそれをパタンとフタしてわきへどけ、封印なんかしない。
 藤づる籠の古着の下から三本ブランデーの瓶が出て来た。それを中年の男が受けとって卓子の上へキチンと並べた。
 いつの間にやら信吉のまわりは、同じ廊下の幾つもの借室から出て来た男女で一杯だ。
「何だい?」
 次々にヒソヒソ信吉に訊いた。
「知らない」
 しまいには、返事するのをやめた。
 床板がめくられると下から、素焼の、妙な藁に包んだいろんな形の酒瓶が五本も現れた。戸口につめかけてる群集の中から刺すような甲高い子供の声がした。
「アレ! 父っちゃん。何さ? あの瓶? 何サ?」
「……黙ってろ」
 グリーゼルと都合八本の酒瓶と三人の男は、無愛想に人だかりを分け階段を下りて再び行ってしまった。
 忽ち、ヴィクトーリア・ゲンリボヴナが居住人に包囲された。
「みなさん、どうぞ静かに休んで下さい。グリーゼルは強い酒の密売で拘引されたんです。……知ってなさる通り、ソヴェトは勤労者の規律のために強い酒を売るのを禁じているんですから」
 階段を下りかけて、彼女は、
「ああ、ちょっと」
と信吉を呼んだ。
「お前さんの室主は若しかしたら数ヵ月帰って来まいから、室代は直接住宅管理部へ払って下さい」
「――一本の歯になりゃその一本でソヴェトに噛みつこうとしやがる」
 憎々しげに、隣に住んでるブリキ屋が室へかえりながら呟いた。グリーゼルは工場主で、革命まではこの大きい建物を全部自分で持って貸していたんだそうだ。
「土曜日だろう? 今夜は。……ソーレ見な。だから云うのさ、ニキータの婆さんだって今に見な、『軽騎隊』にひっかかるから」
 ソヴェト同盟では、禁酒運動が盛だ。土曜、日曜に、モスクワの購買組合では一切酒類を売らない。ピオニェールや青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》が、官僚主義の排撃や禁酒運動のために活動する。その団体が「軽騎隊」なんだ。
 暫くして、
「おい! いい加減にして来ねえか!」
 横になってる信吉のところまで、怒ったブリキヤの声で廊下の女房を呼ぶのが聞えた。
 今朝は、然し何も彼もいつもどおりだ。
 内庭で信吉は建物の別な翼から出て来るエレーナに行き会った。
 腕に買物籠をひっかけたエレーナは、信吉を見ると、後れ毛をかきあげるような風をして持ち前のカサカサ声で挨拶した。養育料請求のとき証人になってやってから、エレーナは信吉と口を利くようになったんだ。
「――知ってるか? グリーゼルが昨夜引っぱられたよ」
「知ってるよ」
 二人は並んで古い木の門を出た。
「……お前困りゃしないのか? 金はどうするんだい?」
 エレーナは、俯いて歩いてはいるが穏やかな悄気《しょげ》てない調子で、
「私は安心してるよ」
と云った。
「お金は、労働矯正所の方からチャンと送ってくれるんだってもの……あすこにはいい紡績工場があって、出て来れば工場へ入れるようにしてくれるんだヨ」
「ふーん」
「お前知らないだろ?」
 熱心な口調でエレーナが云った。
「あすこには、学校も劇場もあるんだってさ。……私は安心してるよ。大抵よくなるんだもの、帰って来ると」
「グリーゼル、前にも行ったのか?」
「あの男は初めてだろう。……でも私知ってるんだもの……」
 ソヴェトでは、監獄というものが資本主義国とはまるで別な考えかたで建てられてる。エレーナの不充分な言葉にこもっている信頼から、信吉はそれをつよく感じた。
「……私の死んだお父つぁんがね、行ったことがあるんだよ。それは工場で、みんなに渡す作業服の買入れをごまかしたからなんだけれど。――本を読むようになって帰って来たもの……そして、それから
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