は職場には一人もいねえ。――
 ヒョイと跼んだ拍子に見ると、明るくカラリとした仕事場のむこうの入口からピオニェールが二人来る。
 仕事台と仕事台との間の広々した、鉄の匂いのする通路を、赤い襟飾が初夏らしくチラチラした。
 間もなく信吉のところへも来て、
「お前、もうこれへ書きこんだ?」
 鉛筆で罫をひっぱった大判の紙を見せた。
 信吉は片手に鉄片をブラ下げたなり、
「何だね?」
「五ヵ年計画公債を買う人はここへ名を書くんだよ」
 仕事台で並んでるグルズスキーが、撫で肩の上から粘りっこい目つきでチラリとこっちを見たなり、黙って仕事をつづけてる。
 信吉は、ピオニェールの出してる紙をゆっくりとりあげた。
「なんぼなんだ?」
「一枚五ルーブリさ。毎月払いこみゃいいんだヨ。うちの工場、フトムスキー工場と社会主義競争をやってるんだ」
 名と予約金高が書いてあるんだが、どれも二十ルーブリ、二十五ルーブリ、多いのんなると四十ルーブリなんてのがあって、五ルーブリなんぞと書いてあるのはない。
「――お前、なんなんだ?」
「俺?」
 金髪を額へたらして、女の子みたいにふっくりした頬っぺたのピオニェールは、クルッとした眼で信吉を見あげた。
「工場学校の、『五ヵ年計画公債突撃隊』だヨ」
「鋤」附属の工場学校では、四年制の小学を出た男の子や女の子が三十人ばかり技術養成をうけている。
「……お前いくらって書く? 二十ルーブリ?」
「やめとこう」
 信吉は紙をピオニェールにかえした。
「なぜだい?」
 びっくりした様子で、信吉を見た。
「みんな書いたんだヨ」
「俺あ、ここへ来てまだ二週間ぐれえにしかならね。新米だ。もういろんなのに書いた。だから、いいんだ」
 つい三四日前のことだ。職場のコムソモーレツ、ヤーシャがやって来て、オイ、国防飛行化学協会《オソアビアヒム》の会員になりな、と云った。工場の者は大抵会員になってるって云ったから信吉も入ることにした。会費五十カペイキ出した。
 きのうは食堂で国際赤色救援会《モプル》の委員だっていう若い女につかまって、そこへも加盟させられた。一月五十カペイキだ。一週間のうちに、こういうのをもって来るからね、と、その女は自分の膨らんだ胸へくっつけてる徽章を見せた。鉄格子から手が出て赤い布を振っているところだ。世界じゅうの〔約五十字伏字〕。
 こう続けざまじゃ、やり切れねえ。
 信吉は思った。古くッからいる者だけが書きゃいいんだ。年の小さいピオニェールは、信吉にことわられて困った顔をしていたが、
「冗談じゃなくサア」
と云った。
「書くだろ? いくら?」
 しつっこい。そう思った拍子に、
「俺らロシア人じゃねえ!」
 ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 小さいピオニェールは、瞬間平手うちをくったような顔になって信吉を見てたが、ハッキリ一言、
「――お前、プロレタリアートじゃないってのか?」
 ちょいと肩をゆすり、一人前の労働者みたいな大股な歩きつきで、行っちまった。
 チェッ! 低い舌うちをして、信吉はやけに頭をかいた。何だか負けた感じだ。
 なんだ! つい横じゃ、信吉の台から廻す締金の先へ手鑢をかけてるオーリャまで、こっち見て奇麗な白い歯だして笑ってる。
 信吉はムッツリして働き出した。
 暫くすると、
「気にするこたねえ」
 グルズスキーが顔は仕事台へ正面向けたまんま小声で慰めるように云った。
「食堂にかかってる表《ひょう》へみんなが好きで名を書きこんだか?――決してそうじゃねえ。スターリンは、公債を買う買わないは自由意志だって新聞で云ってるが、工場委員会の連中が、見張ってやがるんだ。……それにこの工場じゃ、もう一まわりすんでるんだ」
 コソコソ声で、グルズスキーがそんなこと云うんで信吉はなお気が腐った。
 ボーが鳴った。
 工場へ入って初めていやにはずまない気分で信吉が仕事場を出かけたらオーリャが、
「ちょいと! シンキーチ!」
 後からおっかけて来た。工場学校をすまして信吉と前後して職場へ入って来たばかりの婦人旋盤工だ。
「見たよ」
 人さし指を立てて信吉を脅かすようなふりをしながら、ハハハと笑った。
「…………」
 苦笑いして信吉はそっぽ向いた。
「お前、クラブへ行った?」
「いいや」
「じゃ来ない? いいもん見せてやるわ」
 木工部の横をぬけ、トロの線路を越して、花壇の方からクラブへ入ってった。
 昼休みは、若い連中で賑やかだ。
 運動部の室からフットボールを抱えて出て行く。開けっぱなしにした戸からチャラチャラ、幾挺ものマンドリンが練習している音がする。
 赤い布をかけた高い台にレーニンの胸像が飾ってある入口の広間へ来ると、
「ほら! 見た?」
 壁新聞の前へオーリャは信吉をひっぱってった。
「こりゃ、誰れ?」
 へえ……。仕事台の前へ立った信吉の写真が壁新聞に出てる。
「おきき。読んだげるから。
[#ここから2字下げ]
われわれの工場の旋盤部へ、はじめて一人日本の若者が入って来た。セリサワ・シンキチ。二十二歳だ。貧農の三番息子だ。アルハラの××林業で働いていたが、そこでソヴェト同盟の労働者がどんなに暮しているかという話をきいた。モスクワへ逃げて来た。旅券なしだった。
モスクワではじめ煉瓦砕きをした。それから『鋤』の旋盤第三交代へ働くようになった。
彼は、まだロシア語を読書きは出来ない。だが、もうオソアビアヒムと、モプルの会員となった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地より3字上げ]労働通信員 グーロフ」
「ふーむ」
「間違わずに書いてある?」
「ああ」
「この写真、誰がとったのかしらん」
 オーリャは、紺の上被りの結びめが可愛くつったってるオカッパの背中をかがめて、シゲシゲ写真を見た。並んで信吉も、ひとの写真を見るようにそれを眺めながら、
「グーロフだ」
「……似てるわ」
 クラブを出て、花壇を歩きながら、オーリャが、
「お前、家族ないんだろ?」
と云った。
「ない」
「私知ってるよ、今、お前自分で自分に満足してやしないんだ」
「…………」
 そりゃ本当だ。
 カンナの花のわきで、オーリャがぴたりと立ちどまった。
「お前、お書き。……そうすりゃすっかりよくなるよ。……書くだろう?」
 太陽はキラキラ照りつけて、工場の三本の煙突も、カンナの大きい花も、オーリャのすらりとした素脚も、青空といっしょに燃えるようだ。
「書く?」
「うん!」
「そうしなくっちゃいけないさ。〔十三字伏字〕、〔四字伏字〕区別なんぞないんだ。そうだろ?」
「俺は……」
「わかってるよ。ブルジュアの魔法さ」
 オーリャは、信吉の顔の前で、艶々した唇をトンがらかして呪文をとなえる真似をした。そして笑い出した。
「さ、握手しよう!」
 信吉[#「信吉」は底本では「信者」と誤植]はしっかり、細い、だが力のあるオーリャの手を握った。
「さきへ行って、食堂んとこで待っといで。いい? 私、コーリャよんで来てやるから。あの子、がっかりしてたよ、さっきは――」
 信吉は、元気に手をふって花壇を足早に工場学校の方へ行くオーリャの後姿を長いこと立って見送ってから、食堂へ行った。

        四

 シッ!
 シッ!
 ひろいモスクワ河を、ボートがゆっくり溯っている。
 上流に鉄橋だ。
 右岸は空地で電車終点だ。西日で燦めきにくるまれた空に遠い建築場の足場が黒く浮立ち、更に遠方で教会の円屋根が金色に閃いてる。
 ボートを借りて来た職業組合ボート繋留場の赤紙の下では、後から来た一団の男女が、手前へかきよせられるボートを見てる。立ってる一人一人の姿が小さく、ハッキリ中流から見えた。
 左手はひろい「文化と休み公園」だ。
 水泳の高い飛び込み台がある。水をはねかしたり、泳いだりする頭、肩、腕がゴチャゴチャ台の下にある。女の貫くような、嬉しそうな叫び声。笑いながら若い男がよく響く声で何か云ってる。バシャ、バシャ水を掻く音。
 公園から音楽が聴えて来る。
 ミチキンは黙ったまんま、休み日の愉しさを一漕ぎごとに味ってるように、力を入れて漕いでる。
 今日はミチキンにとって特別な日だ。命名日だ。その上、個人営業をやめて靴工場で働くようになってからはじめての休みだ。信吉、アンナ、アグーシャはミチキンのお祝によばれてモスクワ河へ遊びに来ているというわけなんだ。
 公園をはずれると、景色がかわった。
 楊柳が濃い枝を水へつけ、水ぎわのベンチに年とった夫婦が腰かけて日没のモスクワ河を眺めてる。
 オールをあげて浮いているボートがあっちこっちにあった。どのボートにも男女の上にも、いっぱいの西日だ。
 河の上の西日は大して暑くない。――
「なに?」
 アグーシャが、アンナの目交ぜにききかえし、訝しそうに自分の膝の下で寝ころがってる信吉の顔を見下した。が、彼女の口元もアンナと同じようにだんだん微笑でゆるんだ。
「……わるくないじゃないか――」
 ひょっくり信吉が頭をもちゃげた。
「何がよ……」
 アグーシャとアンナは声を揃えて笑った。アグーシャが信吉の肩を力のある手の平でポンと叩いた。
「今お前の頭へのっかってた娘は何て名?」
「バカ!」
 信吉は赧い顔した。
「どうして? 結構じゃないの? お前だってもうおふくろの裾へつかまって歩く坊やじゃないんだもの」
 ミチキンがあっち向いて漕ぎながら真面目な声できいた。
「職場にいい娘いるか?」
「いる」
 信吉は、オーリャはここへ来たかしらとボンヤリ考えてたところだったのだ。
 鉄橋の下まで行って戻って来たら、公園の下のところは、集って来たボートでオールとオールとがぶつかるぐらいだ。
 遠く鳩羽毛に霞んだモスクワ市のあっちで、チラ、チラ、涼しい小粒な金色の輝きが現れたと思うと、パッと公園の河岸で一斉にアーク燈がついた。
 コンクリートの散歩道、そこを歩いてる群集。そういうものがにわかに鉄の欄干の上で際立って、水の上は暗くなった。音楽の響が一層高まった。
「さ、行こうよ、早く」
 アンナが、浮々してせき立てた。
「芝居がはじまるよ、直ぐ」
「七時半からだよ」
「――だって……もう直ぐだよ」
 河岸の水泳場のそばに一隻の水雷艇が碇泊している。真白い服をつけ真白い靴をはいた赤衛海軍士官。帽子のリボンを河風にヒラヒラさせている水兵。新鮮な子供の描いた絵みたいな景色だ。彼等は無料で希望者に艇内を観せ説明をしてやってる。
 むこうの丘の上には、政治教程の講堂と図書室。科学発明相談所がある。
 曲馬がかかってる。
 托児所は、千人を収容する大食堂のわき、花園と噴水のかげだ。
 ガラス屋根の絵画展覧会。午後十時まで。
 活動写真館。
 アンナがわいわい云う芝居というのは「農村と都会の結合」広場のわきに、自然の傾斜を利用してこしらえた露天劇場だ。
 ベンチはとうに一杯で、信吉たちが行きついたときは、遠くの芝草へ足をなげ出して、明るい舞台の上で人間の動くのだけを満足そうに見下してる男女も幾組かある。
「これじゃ仕様がないや」
 アグーシャは先に立ってブラブラ行ったが、急に勢よく振りかえっておいでおいでした。
「いいもんが始るヨ! はやくウ」

        五

 数百人の輪だ。
 中央に高い台があって、運動シャツ姿の若い女がアーク燈の光を浴びながらその上に立ってる。テントの方から労働者音楽団が活溌な円舞曲を奏し出すといっしょに、
 ソラ、右へ、右へ、
 一 二 三 四!
 一 二 三 四!
 かえって。
 左へ
 一二 三 四!
 足踏をして!
 一二 三 四!
 ウォウ――!
 合図につれて数百人の男女が笑いながら声を揃えてウォーオ……!
 サア
 手を振って
 高く! 高く!
 一二 三四!
 見ず知らずの者だが仲よく手をつなぎ合って、前へ進んだり、ぐるりと廻ったり、調子をそろえ、信吉たちは汗の出るまで二かえしも陽気な大衆遊戯をやった。
 やっぱり見ず知らずの若い者多勢と、今度は別な砂っぽい広場で「誰が鬼?」をやった。
 一人が目をつぶっ
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