ついてった。
休憩なのはこっちの室だけだ。ドアのむこうでは、その間に判決を審議しているんだ。
四十分ばかりして、女裁判官と陪審員が再び現れ、グリーゼルは月十五ルーブリずつの養育費支払いを宣告された。
(※[#ローマ数字「III」、1−13−23])[#「(III)」は縦中横]
一
内地で自転車屋に奉公していたことが、計らず信吉の仕合せとなるときが来た。
ソヴェト同盟では、一九二八年十月から生産拡張の五ヵ年計画という素晴らしい大事業にとりかかってい、五年間に、つまり一九二八年から一九三三年の秋までに、同同盟の
(一)[#「(一)」は縦中横] 工業生産額を百八十三億ルーブリから四百三十二億に
(二)[#「(二)」は縦中横] 農業生産額を百六十六億から二百五十八億に
(三)[#「(三)」は縦中横] 電力を二十一億キロワット時から二百二十億キロワット時に
高めようという大計画だ。一年一年予算を立てて着々とやっている。
まだアルハラの山奥で××林業の現場に信吉が働いてた頃、松太がこういうこと云った。
「なんでもモスクワは今大した景気で、おっつけアメリカ追い越すぐれえだとよ」
豪勢なもんだナ。ボンヤリそう思っただけで、そのときの信吉にはもちろんそれが実際にはどういうことだか、見当もつかなかった。
アメリカに追いつくと云ったって、そう手っとり早く、いかに勤勉なソヴェトの労働者にだって出来るこっちゃない。
五ヵ年計画は、ソヴェト同盟の農業や工業発達の基礎となる生産手段=機械力をウンと高めるのが第一目的だ。五ヵ年計画では、その生産力で一年に三割ずつソヴェト同盟の全生産があがってゆく。
その割で十八年経つと、ソヴェトの生産は今大威張な工業国アメリカより五倍も多くなるわけなんだ。
今になって見れば、あんな山ん中にも、みんなが一生懸命になっている五ヵ年計画の噂はひろがってたことが信吉にわかる。
それに労働者の日当が三四割がた高まるから××林業は潰れるべと云った源も、案外的に当ったことを云った。
ソヴェト同盟じゃ、労働者が精出して働き国の富をませば、それを間で〔七字伏字〕って者がないから、みんな一人一人の労働者の毎日の暮しん中へ直に戻って来る。
賃銀が一年で二割ぐらいずつ全体あがった。アグーシャや劉夫婦なんぞ、絹の形つけ工だが六十二ルーブリだったのが、今じゃ七十五ルーブリ以上だ。
五ヵ年計画がはじまって、どの工場でも事業拡張だ。
或る日、区職業紹介所から信吉に呼び出しが来た。
窓口へ行って見ると、麻ルバーシカの男が、
「お前、自転車工場で働いてたことがあるんだな」
と云った。
「工場たって――小さい、田舎んだ」
「どっちだっていいサ。今、『鋤』で第三交代の旋盤工がいるんだ。行って見ろ」
「鋤? 何だね鋤って――」
「工場だ――農具をこさえる工場で、大きい工場だ」そして「お前が日本で働いてた、田舎の、小ちゃいんじゃないよ」剽軽に、信吉の訛ったロシア語を真似して笑った。
「体格検査をうけて、通ったら見習一週間。給料つき。それから本雇の給料は、工場委員会の技術詮衡委員がきめてくれる。――わかったか? サア、これがところ書だ」
モスクワ、ヤロスラフスコエ街道。――
モスクワも北端れだ。長く続いた工場の煉瓦塀の外に青草が生え、白い山羊が遊んでいる。貨車の引こみ線らしいものが表通りからも見えた。
工場クラブの横に診療所があって、信吉といっしょに健康診断をうける男がほかに三十人ばかりある。
信吉はズボンだけの裸んなって、腋毛を見せながら、白い上っぱりを着た中年の医者の前へ立った。
「さて……見たところ達者そうだね」
信吉に舌を出させながら、
「お父さんとお母さんは丈夫かね」
「親父は丈夫です。お母は死んだ」
「何で?」
「知らない」
「肺病か、それとも――気違いじゃないか」
医者は人さし指をコメカミのところでクルクルまわして見せた。
「そうじゃないです」
「――子供のとき、ひどい病気はしなかったかね?――……餓えたこたァないかね?」
単純な恐ろしく真実な質問は信吉を深く感動させた。
体格検査をうけたのはこれで二度目だ。内地で徴兵検査のときと、――市役所で、陸軍の将校が来て、猿又までぬがした。〔九字伏字〕ときみたいな調べかたをしたが、餓えたことはないかとは、訊いてくれなかった。
信吉は丁寧に、どうにか食えてたと答えた。
「梅毒や淋病は患ってないか?」
つづけて医者がきいた。
旋盤の第三交代は、初め四日間、夜十二時から翌朝の七時まで働くと、まる一日休みで、次の四日間は朝八時から四時までにまわる。もう一度休みを挾んで、四時から十二時までの出番になって、その順でグルグルまわるんだ。
二
白っぽい樺板の羽目に赤いプラカートや、手描きのポスターが貼ってある。
この頃また建てましをやった「鋤」の食堂だ。果汁液《クワス》だの一杯二カペイキの茶、スイローク(牛乳製品)なんぞを売ってる売店の上んところに、ラジオ拡声器がつき出ている。
昼休みの労働者のための音楽放送だ。ところが今日はオーケストラそっちのけで、一つの長テーブルのまわりへ大勢がかたまってる。テーブルへ腰かけて、のぞきこんでる者もある。
「何ごとだい?」
信吉なんだ。本雇んなって三日目の信吉が、弁当つかってたら偶然みんながいろんな質問をはじめて、こんなにかたまっちゃったんだ。
水色と黒のダンダラ縞の運動シャツを着た若いのが、信吉のとなりで頻りに本をよみながら、ソーセージとパンをくってた。何心なく見ると、その本には機械の図解があって、むずかしそうな方程式が書いてある。
……職工でこれがわかるんだろか……。なお眺めていたら、その若いのがヒョイと顔をあげて、信吉を見た。毛色の違いにすぐ気がついた風だ。両方ともちょっとバツがわるいように見あったが、運動シャツの方が、
「お前ここに働いてるのか?」
と口をきった。
「ああ」
信吉は、本を指さした。
「それ、わかるのかい? お前に」
「これか?」
却って質問が合点いかないように運動シャツは本を持ちあげて信吉の顔を見ていたが、
「ああ、お前今度第三交代で入って来たんだろ」
と云った。
「俺は実習生なんだよ、工業学校からの……お前旋盤か?」
それから、その実習生がきき出した。日本に共産党[#「共産党」に「×」の傍記]があるか? 労働者の賃銀はどの位だ? そこへ、別のテーブルの連中もそろそろやって来た。
「……話わかるのか?」
「通じるよ」
すると、鞣の前垂れをした四十がらみの骨組みのがっしりした労働者が、
「お前、何てんだ?」
ときいた。
「シンキチだ」
「よし、よし。じゃあシンキーチ、きかしてくれ。お前ん国なんだね、〔四字伏字〕か?」
テーブルへ肱をついて信吉の方を見ていたカーキ色シャツの青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》らしいのが、それをくだいて、
「〔九字伏字〕? まだ。それとも〔三字伏字〕か?」
と云った。
「〔八字伏字〕」
ガヤガヤみんな一時に口をきいた。
〔四字伏字〕なんだ。
そうじゃない。日本には〔十七字伏字〕、〔四字伏字〕だよ、今は。
「まあ、いいや。……それで、赤色職業組合なんかあるか?……メーデーにデモンストレーションやるんか?」
「ああ。トラックで一杯〔六字伏字〕」
ドッと愉快そうにみんなが互に顔を見合わせながら笑った。鞣の前垂れかけたのが、信吉の肩をたたきながら、
「ナーニいいさ? 今に見てろ。〔十六字伏字〕」
ギューッと曲げて力瘤の出た二の腕を、ドスンドスンと叩いて見せた。
「わかるだろ? そして、〔十三字伏字〕。そのとき、こっちじゃ五ヵ年計画を三つも四つもやっといて、飛行機で〔十二字伏字〕!」
菜っ葉服にオガッ屑をつけ、鳥打帽をかぶった鼻の赤い木工らしいのが、
「おめ、おめえんとこに、飛、飛行機あるかね?」
と吃りながらきいた。
「勿論あるさ!」
信吉は力をいれて答えた。
コムソモーレツらしいのが口を入れた。
「日本の〔四字伏字〕工業技術は進んでるんだ。水力電気も発達してるんだぜ」
暫く、みんな黙ってたが、木工が、
「おおお前の方じゃ、ど、どうだね、大体食糧なんざ、た、たんとあるかね?」
忽ちすべての目が信吉に向ってシーンと引きしまった。飾りのないとこ、これは今のみんなが注意ぶかくきかずにゃいられないことなんだ。信吉にはソヴェト労働者のその心持も、事情も親身に察しられる。信吉自身だって、アルハラの山奥から、いいことずくめを想像してモスクワへ来たときにゃ食糧難で実はびっくりしたんだ。
「日本に食糧はうんとあるんだ。だが、どうにも銭がねえ。……わかるか、俺のいうこと」
信吉はグルリとみんなを見まわし、
「――これが、ねえんだ」
指で円く形をして見せた。
「……失業が多いのかい?」
「ひでえ。ソヴェトじゃ、食糧の切符でも、とにかく労働者が第一列だ。〔四字伏字〕、〔六字伏字〕。……わかるか? 俺の云うこと」
「わかる!」
誰かが言下に答えた。
「わかるよ」
わきへよってそれ等の問答をききながら鞣前垂が紙巻き煙草をこさえていたが、真面目などっか心配そうな眉つきになって信吉にきいた。
「お前、ソヴェトが今どういう時だか知ってるか?……五ヵ年計画って何だか知ってるか?」
「知ってる……よくは知らないが、知ってる」
「ふむ、そりゃいい。今何より大事なことなんだ、われわれんところじゃな。いいこともわるいこともみんなそっから来てる」
……こいつ、党員かしら。――信吉は鞣前垂にきいた。
「お前、党員かい?」
「そうじゃない」
手巻きタバコをくわえ、それにマッチをつけながら、
「党員の方がよかったか? ハッハッハ」
いかにも、こだわりない声で笑った。みんな笑った。
「党員だけがいい労働者にゃ限らねえ」
すると、わきの若い一人が、親指でその鞣前垂の広い胸をつっつきながら、
「これは、一九一七年の英雄だよ。この工場が『白』に占領されそうんなったとき、こいつは涙ポタポタこぼしながら樽のかげからつづけざまに『白』の〔十字伏字〕」
鞣前垂のゆったりした全身にはどっか際だって心持のいいとこがあった。
ジッと、潮やけみたいにやけた鼻柱と碧っぽい落付いた眼を見あげながら、信吉は、
「お前、何てんだ?」
と、きいた。
「俺?――ドミトロフだ。……わかったか? ドーミートーローフ。鍛冶部だ。二十年働いてる。お前が知り合いになった男が、『飛び野郎』じゃねえことだけは確かだよ」
五ヵ年計画で、あっちこっちへ工場が建ち、特に熟練工はソヴェト同盟じゃどこでもひっぱり足りない。
そこで、一部の労働者が、一つの地方から一つの地方へ、三ルーブリでも賃銀の高い方へ「飛んで」行く。職業組合はそのために予定が狂って、ひどく迷惑してるんだ。
三
鉄片の先のトンがった方を電気|鑢《やすり》へかまして、モーターを入れると、ツイーッ!
忽ち深い螺旋がついちまう。
ホラ来た。もう片方! ツイーッ!
軽い、規則正しいツイーッ! ツイーッ! という響と鉄が強いマサツで放つ熱っぽい活溌な匂いとがいくつも並んだ台を囲んで仕事場じゅうに満ちてる。
信吉は、コンクリの床から鉄片をとりあげちゃ鑢にかけ、調子よくやっていた。
「鋤」で働くようになってっから、信吉は満足だ。
ソヴェトの労働者といったって、道ばたで煉瓦砕きをやってる連中とここの連中とじゃ、違う。先は、顔ぶれが日によって変ったし、第一みんな臨時にこんな仕事やってるんだという腹があったから、仲間同志も、仕事っぷりもどっか冷淡だった。従ってモスクワの張り切った生活をも道ばたから眺めてるような工合だった。
「鋤」じゃ全く違う。
信吉が日に二百本余の締金を電気鑢でこさえることは、八百人からの労働者のいる「鋤」農具製作工場全体の仕事と抜きさしならず結びついてる。余分な人間
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