通の家と同じ建物だ。ただ玄関の上のところに一つ横看板がついている。それにソヴェトの国標、槌と鎌とのブッ違えを麦束で囲んだ標とソコリニチェスキー区第二人民裁判所という字が書いてある。
 入った直ぐのところに、巡査がタッタ一人ブラブラ後手をくんで歩いていただけだ。
 濡れた靴と襟を立てたレインコートのまんまで入って来る男連は、穢れた廊下の左右にいくつもある室のどれかへさっさと姿を消す。
 信吉が、巡査に紙を見せて教えられた一つの室では、ちょうど休憩だ。
 開けっぱなしたドアのまわりで多勢が喋りながら煙草をのんでる。室内の幾側にも並んだベンチ半数ばかりに男女がかけて、或る者は前と後とで頻りに話ししている。
 信吉自身、今日はもう心配していない。宿の親爺グリーゼルが女から訴えられた。その証人に立てばいいんだそうだ。
 けれど、こう見まわしたところ、みんな実にゆったりとしている。
 尤も、ソヴェトの人民裁判所というのは、人殺しや放火犯は扱わない。つまり刑事裁判所ではない。民事裁判所なんだ。
 前から五側目のベンチの端に信吉は腰をおろした。
 すぐ隣に、薄い毛のショールを頭からかぶった労働者の女房風な婆さんがいる。偶然隣りあわせになったらしい若い男をつかまえくどくど云ってる。
「……それでね、お前さん、その乳牛を売った二百ルーブリの金を盗んだ子供はどこにかくれてたと思いなさる? 住宅監理者の室だよ!……この頃の子供なんて、ほんとに……大人よりおっかない奴らさ」若いおとなしそうな近眼の男は、幾分迷惑そうに脱いで膝の間へ持ってるレインコートの紐をいじりながら、
「……われわれのところじゃ、まだ大人がほんとに子供の育てかたを知らないんだよ、お婆さん。ホントニ社会主義的な教育ってのはどんなもんだか――思うにお婆さんだって知らないだろ?」
「そりゃそうともさ――無学だもん」
「もう十年も待ってて見な。ソヴェトはよくなるよ」
「……大方、今は十六で赤坊を生む娘が十三で生むようにでもなるんだろう……」それっきり二人ともつぎ穂なく黙りこんでしまった。
 古びた窓ガラスは雨の滴に濡れ、外の樹の緑が濃くとけてその面に映っている。
 小声だが絶え間ない話し声と煙草の煙が室へ流れこんで、信吉はだんだん裁判所のベンチの上で落付いた気持になって来た。
 ――それにしても、入道奴、まだ来ねえんだろか。図々しいなア、相変らず。
 ちょいちょい信吉は人の多勢いるドアの方を見た。それらしい姿が見えないうちに休憩が終って、みんなガタガタ室へ入って来た。
 ベンチは一杯だ。窓のところへよっかかって立っている数人の男女もある。
 つき当りのドアがあいた。書類を抱えたキチンとした身装の二十三四の男が現れ、赤い布をかけた一段高い大机に向って腰かけた。続いてもう一人。――
 ははあ、あれが劉の云った陪審官てんだな。
 信吉は、鳥打帽を握って頸をのばし、一心にそっちを眺めた。
 女の書記が着席した。
 いよいよ裁判官の番だ。が、同じドアから軽い靴音を立てて入って来た裁判官を見ると、信吉はホホウと目を大きくした。女だ。四十三四の、細そりした落着のある女の裁判官だ。
 ソヴェト同盟へ来てから信吉はいろいろ新しいことを見た。が、女の裁判官たア……。室は水をうったように鎮まった。
 深く卓子《テーブル》の上へ両腕をのせ、書類をひらく質素な白ブラウズの女裁判官の様子はいかにも物馴れてる。一言、一言ハッキリ語尾の響く声で何か読み上げはじめた。
 それがすむと、重ねてある書類の一つをとり出して、
「ナデージュダ・コンスタンチーノヴァ・ミチコヴァ」
 呼びあげながら、一わたり室内の群集をゆっくり端から端へと見渡した。信吉の一側前のベンチから、紺色の服を着た若い女がいそいで立って、壇の前へ出た。
 信吉は、顎をツン出して女裁判官の方を見ながら、今に自分の名が呼ばれるかと気を張った。ちがった。別の名だ。
「ワルワーラ・アンドリェヴナ・リャーシュコ」
 ――誰も出て来ない。
 女裁判官は、練れた声を少し高めてもう一遍呼んだ。
「いないんですか?」
 みんな、ザワめいた。赤い布で頭を包んだ女がベンチから立ち上りながら、
「さっき、ここにいたのに」
と、廊下の方へさがしに行った。
 すると、
「同志裁判官……」紺ルバーシカを着た猫背の薄禿げの男が前列のベンチから立ち上って、妙に押しつけがましい口調で女裁判官に云った。
「私は……ワルワーラ・アンドリェヴナの良人です……彼女は頭痛がして来たもんでちょっと……私が質問に答えたいと思います……」
「それには及びません」
 女裁判官は見透したように微笑んで云った。
「きっと急に工合がわるくなって来たんでしょう……私共は待てますよ」
 相手が出て来ないもんでポツネンと頼りなさそうに壇の下に立っている若い女に、質問をはじめた。
 水上救護協会書記の妻ワルワーラが同じ借室の、裁縫女ナデージュダに絹ブラウズを縫わせた。ところが出来がわるいと云って金を払わず、請求するたんびにひどい悪態をついて辱しめる。その訴訟だ。「証人、グラフィーラ・イリンスカヤ」

        五

 声に応じて出て来たのは、体がしぼんでしぼんで、どんなにタクシ上げても裾が引きずるというような恰好をした七十余の婆さんだ。
 婆さんは、赤い布をかけた机の下へ行きつくと、旧知の人にでも会ったように首をさしのばして、
「今日は。――女市民さん」
と愛嬌よく女裁判官に挨拶した。
 思わず室の半分ばかりがふき出した。
「――私の訊くことだけに答えて下さい。よござんすか」
 女裁判官が澄んだ瞳に笑を泛べしずかに云った。
「はいはい、わかりますよ。可愛いお方。私はもうこの年で、どうして嘘なんぞを吐きますべ。人の罪はわが罪でございますよ。――神よ、護り給え!」
 婆さんは胸の前でいくつも十字をきりながら裁判官の後の壁にかかってる大きいレーニンの肖像へ向って恭々《うやうや》しく辞儀した。
 滑稽にハメをはずしながら、婆さんはワルワーラがナデージュダに唾をしっかけたことまで証言した。
「同志裁判官! 御免なさい、一言」
 チェッ! 信吉は小鼻の横を指でこすった。裁判官が女だもんで、こいつは何とかごまかそうとかかってるんだ。
「妻に代って一言――」
「市民! あなたおわかりでしょう。ソヴェト権力は男と女とを平等な権利で認めているんです。あなたの妻に関係したことにあなたが口をはさむことは許されません」
「同志裁判官! そりゃ官僚主義です」
 猫背の男は、演説をするように片手を前へのばして叫んだ。
「妻は病気になったんです。それにも拘らず」
 裁判官は、穏やかに、キッパリそれを制した。
「ちっとも官僚主義じゃありません。私共は明後日でも、あなたの妻の体がなおるまで、いつまででも待ちます。彼女が出廷出来るまで事件は保留です。そう伝えて下さい」
 そしてナデージュダと婆さんに、
「おかけなさい」
 場内に満足のざわめきが起った。
 左右の若い陪審員も、やっぱりこの女裁判官を尊敬し好いていることは、ちょっとした動作――例えば鉛筆をとってやったりするときのそぶりにだって現れている。
 信吉は、感服して、こわい、だが道理のわかる小母さんみたいな女裁判官を眺めた。ソヴェトみたいな国になると、へ、女までこんなに違うんだべか!
 ゆっくり厚紙の表紙をめくりながら、
「チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼル」
 ソラ来た!
 信吉はびんとなって、ベンチからのり出した。いよいよ親父の番だゾ。
 返事がないんで、女裁判官がもう一度、
「チホン……」
と云いかけたとき、
「ここです」
 思いがけず、赤い布をかけたテーブルの直ぐわきに立ってる一かたまりの群集を肩でわけて、グリーゼルが剛腹そうな坊主頭で現れた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナ・パタキン」
 布団にくるんだ乳呑児を両手で抱えた弱そうな若い女が、グリーゼルと並んで立った。図体の大きいグリーゼルのわきで、女は彼の娘ぐらいの小ささに見えた。
「本事件はエレーナ・アレークサンドロヴナ・パタキンによって、チホーン・アルフィモヴィッチ・グリーゼルに対して提起された養育費《アリメント》請求に関する訴訟です」
 爺め! 信吉は変な気になった。
 だって、この見栄えのしない小さな女とは一つ建物に棲んでいて、朝晩見かける。グリーゼルと、内庭のベンチに並んで腰かけたりしているのを見たこともある。
 そんなときでも親父は、パイプをくわえて、相変らず意地わるいドロリとした眼付で物も云わずかけている。女は、赤坊をかかえて、チョコンとその横にいる。信吉は、女を今日までグリーゼルの親類、姪かなんか、と思ってた。年だってその位違うんだ。
 身分調べがすむと、女裁判官は、エレーナに訊いた。
「あなたは、どういう機会でグリーゼルと知り合いになったんですか?」
 女は、フイとうつむいて、赤坊をつつんだ布団をいじくりながら黙った。
「……きまりわるがることはないんですよ」
 励ますように女裁判官が説明してきかせた。
「すっかり事情がわからなければ、私共はあなたを助けたげることが出来ないわけです」
「私、仕事がほしかったんです」
「――それで?」
「私工場へ働きに出たことはないし、どうしようと思ってたら、チホーン・アルフィモヴィッチが、ソヴェトに知っている者がいるから、野菜の許可露天商人に世話してやるって云ったんです」
「それが今の職業ですね」
「ええ」
「どうして真直職業紹介所へ行かなかったんですか?」
「……うまく行くだろうと思ったんです」
 咳きばらいをしながら、カサカサした声で女は話した。身持ちになったときグリーゼルは、俺には貯金が五百ルーブリもあるんだから、養育費を出してやると云った。それだのに赤坊が生れて十ヵ月経つのに一文もよこさないと云うわけだ。
「ソヴェトの法律は、女が自分に赤坊を生ませた男から、月給の三分の一までの養育費をその子が十八歳になるまで要求する権利を与えています。然し、それはただの口約束では駄目なんですよ。裁判できめなければ駄目です。――知らなかったんですか?」
「知りませんでした」
 そう云ってエレーナは微に顔を赤くした。
 ふーん。……じゃソヴェトじゃうっかり女に悪戯なんぞ出来ねんだな。
「証人、シンキーチ……」
 女裁判官はよみ難そうに顔を書類に近づけて呼んだ。
「シンキーチ、セリサーワ」
 立ってベンチを出てゆく信吉の後で、物珍しそうな囁きがあっちこっちで聞えた。
 だれ? あの男――
 知らないヨ。
 支那人だろう。
 ――静にしろ!
 女裁判官は、赤い布をかけた机ごしに信吉にきいた。
「いくつです?」
「二十二」
「職業は?」
「煉瓦を、こうやって槌でこわす」
 信吉は仕方をやって見せた。
「それが仕事です」
「よろしい。……あなた、この女を知っていますか?」
 子供の時分、学校の教壇のまえへよび出されたときみたいな心持に信吉はなった。全くソヴェトにはまだ新しいものと古いものがゴッタかえしてる。女裁判官は、そのゴタゴタに新しい社会の定規を当ててハッキリしたけじめをつけてやってるようなもんだ。
「知っています」
 いろいろの質問に知ってるだけ答えた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナとグリーゼルが一緒にいるのを見たことがありますか」
「え。庭で」
「そうじゃない。室で……寝床で」
 信吉は、横に並んでる二人の方をジロリと見た。エレーナは細い娘っぽいボンノクボに力をいれてがんこに下を向いてる。
 が、いい年をしたグリーゼルは、女裁判官ぐるみソヴェト裁判そのものをてん[#「てん」に傍点]からなめ[#「なめ」に傍点]てる風でヌーと立ってやがる。
「俺、朝働きに出る」
 信吉は答えた。
「夕方、かえる。グリーゼルは一日家にいる。何をやってるか――悪魔が知ってら!」

 この事件のほかにもう一つ、母親が息子に扶助費請求の聴取を終って、女裁判官はドアの奥へ引こんだ。書類をまとめて、二人の陪審員も
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