二
焼きたてのパンの熱気と押し合う人いきれで、三方棚に囲まれたパン販売店の中はムンムンしている。
信吉は煉瓦埃りのくっついたままのズボンで列の後にくっついて、辛棒づよく一歩ずつ動き、先ず勘定台で十二カペイキ払って受取の札を貰い、今度はパンをうけとるために続いてる列に立った。
のろのろ前進しながらむこうの往来を眺めると、石油販売店の前から、ズット歩道の角まで列がある。
よくよくものが足りねえんだなア。
まさかモスクワがこんなじゃあるまいと思ったが、ひどい有様だ。こんなに列に立って買うパンが而も制限されている。めいめい住宅管理部から手帖をわたされて、その一コマ[#「コマ」に傍点]が一人一日分だ。
肉も、石鹸も、布地も、砂糖から茶までそれぞれ日づけがきまっていて、その手帖から切ったコマ[#「コマ」に傍点]できまった分量だけ買うんだ。
金があったって、手帖なしには買えないんだ。
信吉のズッと前にいる婆さんは何枚コマ[#「コマ」に傍点]を持ってるのか、白い上っ被《ぱり》を着た女売子が両手で白パンをかかえては籠の中へ入れてやってる。ホイ、もう一本か。そう慾ばるない。
次は、派手な緑色の帽子をかぶって折鞄をもった役人みたいな男だ。見ていると、白パンと黒パンをまぜて一斤半しか渡さない。コマ[#「コマ」に傍点]の色が信吉のと違う。茶色だ。
誰でも二斤貰ってるんだろうと思っていた信吉は、それから注意して見ると、労働者らしくない体恰好の男女だけ、一斤半だ。ソヴェトだナ。体を使う者とそうでないものとは、ちゃんと区別してきめられているのだった。
窮屈なりに、考えてら。
信吉は、ちょっとわるくない心持になって、パンを食い食いブラリと先のコムナール(消費組合販売所)へよって見た。モスクワ市中で食糧品は野菜から魚肉類まで大抵コムナールで買うようになっているんだ。
ところがこの頃ときたら、コムナールにはジャガ薯《いも》、玉ネギ、鰊ぐらいがあるっきりだ。
見物がてらブラついていたんだが、信吉は急にパンをかむのをやめて一つの硝子箱へ鼻をおしつけた。
米だぜ、こりゃ……!
「おい、ちょっと」
順を待ち切れずに信吉は、若い男の売子を呼んだ。
「この米、なんぼ?」
「半キロ一ルーブリ三十五カペイキ――子供の手帖もってるかね?」
「子供の手帖?」
バカにすんねえ。憚りながら一人前の大人だよ。信吉は威勢よく、
「これだ!」
と、ポケットからまだ新しい手帖を出して見せた。
「それじゃ駄目だ」
どうして※[#疑問符感嘆符、1−8−77] すると、売子に砂糖をはからしていた若い女が愛嬌いい眼付で、笑いながら、
「米は、子供の手帖でだけ分けてくれるんだよ。それでなけりゃ、こういう手帖でなけりゃ駄目なのさ」
そう云って自分の赤い色の手帖を見せてくれた。
勢が挫けた信吉はおとなしく、
「それ、何の手帖だね」
ときいた。
「消費組合員の手帖さ……」
そして、いかにも気軽い調子でその女は信吉に云った。
「お前さんもお買いなね……どうして買わないの? 働いてるんだろ? じゃ何でもありゃしない。――あの窓口へ行ってそうお云い……ホラ、あの窓……」
年かさの女にすすめられ、信吉は断りきれなくなって、空箱をつみ上げた横の窓口へ行った。振向いて見ると、世話好きな女はちゃんとまだこっちを見ていて、
「そこ、そこ!」
指さして、首をふってる。
その様子を見て耳飾りを下げた若い窓口の娘が声をかけた。
「お前さん、なに用?」
モスクワじゃ役所でも店でも、どっちを向いても女が多勢働いている。信吉は、頭を掻いちまった。
娘は、おかしそうに、小脇にパンを抱えたなり云うことが解らないでいる信吉の恰好を見ていたが、
「若しお前さんが組合員になりたいなら、はじめ一ルーブリだけ、出しゃいいんですよ。それから後は、毎月お前さんがいくら稼ぐか、それによって、割合で払うの」
と、ゆっくり、言葉を区切って説明した。
「――俺、今金ないんだ」
「それがどうなのさ! じゃ、またあるときにお出でな」
わかんねえことがまた一つ出来た。組合へ入っていない者だって労働者という点では同じだ。ソヴェトが労働者の国って立て前で、一応手帖で金の威光を封じてるように見せてるが事実金だして買った別の手帖もってれば、食物でも何でも余分に貰える。そうとすりゃ、同じこっちゃねえのかしら? やっぱし、金のある者が金のねえもんより沢山取ることんなるんじゃねえか?――
その金をどうしてとるかと云えば働いてとる。社会を運転して行くために必要な労働なら、仕事に上下はないと李が云ったのを思い出し、一層わけが分らなくなった。
信吉が煉瓦砕きしてとってる金は、決して、折鞄抱えてあるいてる技師の月給と同じじゃない。労働者の権利が平等な筈のソヴェトで、何故賃銀の違いが在るんだろうか。
二百三十万近い人間のいるモスクワで、信吉がこんなことをきける者が五人いる。第一が李だ。それから劉と女房のロシア女アンナ。次がその劉の室へカーテンで仕切りをこさえて一緒に住んでる若い靴職のミチキンと、女房のアグーシャだ。
アグーシャは、劉、アンナと同じ絹織工場の型つけ職工だが、区の代議員ていうのをやっている。女でも演説が出来るんだ。
信吉が訊けば、きっと話してくれるんだろうが、不自由なもんだなあ、言葉がダメだ。
李なら、いいんだが、この頃、滅多に会えなくなっちゃった。どっかへ行って、まるで信吉の分んない仕事を忙がしくやってるんだ。――
三
或る夕方のことだ。
ぶるッと身震いして、信吉は目を覚した。いつの間に眠ったのか、靠れていた窓の外で庭がすっかり暗くなってる。菩提樹《ぼだいじゅ》の下にいつも夜じゅう出しっぱなされている一台の荷馬車の轅《ながえ》が、下の窓から庭へさす電燈の光で、白く浮上っている。ブーウ……隣の室で石油焜炉の燃える音がする。
おや、親爺今日は休みか……思う間もなく、クッシャン。嚔《くさめ》が出た。またクッシャン。つづけ様に嚔をした信吉があわててしっとり冷えたシャツの上へ上衣をひっかけていると、
「いいかね」
宿主の大坊主グリーゼルがのっそりと現れた。
やっぱり信吉ぐみで、シャツはカラなしだ。コーカサス製の上靴をひっかけてる。血管の浮出たギロリとした眼で信吉を見据えながら、
「ソラ、お前さんへだ!」
横柄に手紙みたいな書付をつき出した。
実のところ、信吉にとってこの親爺は苦手だ。というのは、こいつには、何だかほかのロシア人と違うようなところがある。親しみ難くて、この親爺の剃った頭とドロンとして大きい眼を見ると、腹ん中では何を考えているのかわからないという気がいつもするんだ。
信吉は、疑りぶかく手を出して手紙をうけとった。手紙なんて……一体、どっから来るんだ。――
親爺は、信吉があけてそれを見るのを突立って待っていて、
「何だね?」
と云った。信吉はムカついた。親爺はちゃんと自分で知ってるのにわざと訊いてるような調子だ。
「知らね、俺《お》らよめねえよ」
口惜しかったが、仕方がない。
「何だい」
ジロリと信吉を見て紙を受とり、親爺はそれを開いて、
「……こりゃ裁判所の呼び出しだ」
信吉に紙をかえした。
――裁判所?……冗談じゃねえ。何を俺がしたんだ。――ムキになりかけた。が、……畜生! 信吉は、その手を食うもんか! と手紙をいそいで畳んで上衣の内ポケットへ入れ、鳥打帽をつかんで室を出た。
アグーシャは、この親爺がどんな奴だかよく知らなかったんだ。ただ、この古い木造の家全体を管理している女が、絹織工場でアグーシャと一緒だもんで、信吉をここへ世話してくれた。
モスクワは古い町なのに、革命からこっち政府が引越して来たんで、住民は殖える一方だがとても住居が足りない。政府は補助金をどっさり出し、職業組合の共同住宅はドシドシ建つがまだそれでも足りない。
だから靴職ミチキンや信吉みたいな二重の間借人が出来る。信吉は入道のもってる七尺に九尺ばかりのところを一月五ルーブリの約束で借りてる。親爺は、信吉に、
「この室は、音楽家が」
ヴァイオリンを弾く真似をして見せて、
「二十ルーブリで住んでたんだ」
と云った。住居は、ソヴェトでは殆ど全部が国有だ。借りては、自分の収入に応じて、家賃を払う仕組みなんだ。ふむ。そうなけりゃなんねえ!
だが、古いこの木造の家に幾世帯も住んでるのは工場へ出ている労働者より、馬車引きや、信吉んとこの親爺のように許可露天商人みたいな稼業のものが多い。
この親爺は信吉が字がよめないもんだから、この前も、何だかスタンプ押した紙を見せて警察がどうとかだから一ルーブリ五十カペイキ出せと云った。
警察《ミリチア》、警察《ミリチア》って云って紙を押しつけ、手の平をつきつけた。警察にビクつく癖のついてる信吉は、あやうく一ルーブリ五十カペイキ出しかけたが、銭の惜しさが先立って、その紙を劉のところへ持ってって見せた。
そしたら親爺め! 信吉の住居届けを倍にふっかけようとしていたじゃねえか。大方、今度もそんなこったべ。
若葉の並木道はアーク燈に照らされ、歩いてゆく左右に高く青々した梢が見えた。ベンチはどれにも人がいるが静かで、アーク燈の下をブラブラ歩いてる者の声高の話だけが、しっとりした夜気に響く。
信吉は、いつもみたいに、わざと男と女とかけているベンチのあっち側を歩くような悪戯もせず、トット劉の住居へ向って歩いた。
革命まで一流のホテルだったという建物は大きくて、町の表通りや横通りにも入口がある。各階の踊り場に色硝子をはめた大窓なんかがあるが、エレベータアはこわれていて動かない。
信吉は一段トバシに五階まで強行し、劉の住んでる戸を叩いた。
返事がない。
ドン、ドンドン。
ひっそり閑としている。チェッ! 誰もいやがらねえのかしら。
――どうとも仕様がない。もとの並木道を、三人の赤襟飾のピオニェールにくっついて歩いて来た信吉は、不意と微かに顔色を変えた。
若しや……。まさかそんなこたあるめ。国柄が違うもん。なんぼ、俺がズラかって来たからって……
だが裁判所。法律。というと、日本のプロレタリアの信吉には頭がモヤモヤとなって先へ監獄しか見えない。
貧乏人に法律は、実際おっかないんだ。〔四字伏字〕ぐらいになれば何万という金をちょろまかしたって、〔三字伏字〕がいい塩梅にやってくれて、「今日こそ晴天白日の身」と新聞にまで出せるが、全くの貧乏人は、困って困ってただの十円どうかしたって懲役だ。ひでえもんなんだ。
信吉は心配で、それなり家へは帰れなくなった。そんなところから呼び出しを食う覚えねえだけ、薄っ気味わるい。
信吉は、暫く待って、もう一遍劉のところへ行って見ることにした。アーク燈のすぐ下にベンチが空いている。そこへ腰かけた。一服しようとポケットをさぐったら、あわくって飛び出して来たんで、生憎《あいにく》、煙草もマッチもない。
信吉は内ポケットからさっきの紙をとり出し、踏んばった両膝へ肱をつき、パンとひろげて眺めたが――。
我知らずロシア人のするように肩をすくめ、信吉は悲しそうに紙をもったなり両腕を拡げた。
いけねえ。……字を知らねえじゃいけねえ。
しっとり黒い夜の梢の下で白い紙は、寒そうにアーク燈の光を浴びた。
四
ビショビショ雨降りだ。
モスクワの雨樋はちょっとよそのとかわってる。一番下の、雨水を吐くところがまるで大ラッパの口みたいに、いきなり人道へ向ってあいている。だから、ウッカリその傍なんか歩くと、グワワワワワと、四階五階のてっぺんから溢れて来る雨水で容赦なく足をぬらされる。
信吉は、現にズボンの裾を濡らしてる。靴も幾分ジクついてるのだが、そんなことには気をとめず、熱心に四辺《あたり》の様子を見まわしていた。
へえ……ソヴェトの人民裁判所ってのは、こういうもんなのか。
第一、裁判所と云ったって、普
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