じゃねえ! そいつがとびつきやがった拍子に、ちっとぱっかこぼれたんです」
 縁無眼鏡が、ロシア娘にうまいこと一本参らしたと見えて、群集は機嫌よくドッと笑った。さすがにテレて娘は桃色の布の端をひっぱりながら、外方《そっぽ》を向いてる。――
 一ルーブリ五十カペイキもする牛乳なんぞ、誰が買うか!

        六

「どうもありがとうござんした」
 やっと人垣をぬけ出た信吉は洋服の袖で顔を拭いた。
「いきなりまくしたてられて、ドマついちゃった!」
 また顔を拭いた。
 少しはなれて、一緒に停ってる汽車の方へ戻りながら、縁無眼鏡が、
「どこまで行くんです」
ときいた。
「モスクワへ行くつもりなんですが……」
「誰かいるのかね」
「いいや」
「働く口があるんですか」
「そうじゃねんです」
 信吉は、人なつこい気になってチラリと相手の男を見た。風采は上らないが、自分より学問している人間なことが感じられた。
 汽車の下まで来たとき、その男は腕時計を見た。
「まだ二分ある」
 ――さっきから耳につくのはどこの訛りなんだろ。信吉は何心なく、
「あんた、どっからけ?」
ときいた。
「……朝鮮です。―
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