すなり大きな声で何か叫んだ。信吉の手元へとびついて来て、持ってる牛乳瓶をひったくろうとする。冗談か? そうじゃない。何すんだ! 不意をくらった信吉が思わず肱で娘をよけようとした拍子に、ヤカンからちょんびり湯がこぼれた。娘の足にそれがかかった。娘は大業な悲鳴をあげた。
 瞬間の出来ごとだった。が、忽ちまわりに人がたかって来た。
 何だい。
 どうしたんだ。
 支那人じゃないか?
 すると娘は、涙も出ていないのに甲高な啜《すす》りあげるような早口で、何か訴える。何を云うのかわかりゃしない。
 信吉は面倒だから、人の間をぬけて出てしまおうとした。どっこい! いつの間にか、四十がらみの黒ルバーシカを着た大きい男が信吉の肱を軟かく、しかし要領よく掴んでいる。
「|買ったんだよ《クピール》! |買ったんだよ《クピール》! うるせえ奴だナ」
 それをおっかぶせて、娘がまた啜りあげるような早口でまくしたてる。――
 途方にくれた信吉が、そのときオヤという顔をして人だかりのあっちを見た。視線を追って、数人がそっちを見た。
 何だ?
 ――日本人だ。
 いい装《なり》をしているんで、尊敬をふくんだ云いかた
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