と、若い信吉の心は苦しくなった。
半年、大きくゆったりしたロシアの山の中で働いた後、喜久地村のいじけた希望のない暮しへは何としても戻る気になれない。この折をのがしたら、もう二度と日本は出られない。手をのばしさえしたら、途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。今、この折をのがしたら。――
ロシアの春の夜の濃い闇の中で、信吉は幾晩も長いこと寝がえりうった。この機会をのがしたら、今はずしたら、いつ、うだつの上るときが来べ?――
信吉はとうとう、明日××林業株式会社事務所出張所へ総集合という前の晩、谷間の六号番屋をズラかった。
五
だから、モスクワ行三等列車の棚の上で、卯太郎の手紙を眺める信吉の心は、しんみりしている。
上《のぼり》列車がジマーというところで停ったときのことだ。みんながらがら汽車を出て行く。信吉も、カラーなしの縞シャツの上から黒い上衣をひっかけて、片手にヤカンをぶらさげ、群集にまじって熱湯配給所へ出かけた。
もう、ずらっと男女の列だ。昔から、ロシアの停車場にはこういうところがついていて、旅客はただで湯をとり、自分の坐席
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