いい労働者になった……」
電車通りへ向ってごろた石を敷きつめた早朝の通りは、働きに出る男女の洪水だ。こっちからむこうへ行く者ばっかりだ。
人波の中から、
「カアーチャ……」
いかにも調子よくひっぱった若い女の呼び声が起って両側の建物に反響した。ヒラリと三階の一つの窓から若い女が上半身のぞけた。
「今すぐゥ!」
そして、消えた。
「可愛い小母ちゃん
早くしてくれ
お粥がこぼれるよゥ」
まだ暑くない朝日を受けて陽気に揶揄《からか》って笑う男たちの声が絶間ない跫音の間にする。
信吉は群集に混って同じ方向に歩いている瘠せたエレーナに訊いた。
「……お前どこまで行くんだい」
「今は店へ行って、それから赤坊を托児所へつれてくんだよ」
「ふーむ。……この頃は預けてるのか?」
「――ここらの人みんな頼んでるもの……私|先《せん》、おっかなかったんだよ、――だって、政府に世話して貰うなんて……」
この女がこんな微笑みを洩すこともあるかと思う清らかな微笑みをエレーナは唇に浮べた。そして云った。
「――ねえ……何故人間って知らないことは何でも、いいことでもおっかながるもんなんだろう……」
(※[#ローマ数字「IV」、1−13−24])[#「(IV)」は縦中横]
一
暑い真昼だ。
「鋤」の旋盤第三交代の連中が、食堂の北側の日かげに転ってる古ボイラーのまわりで喋くってる。だんだん討論みたいな形になって行った。
職場のコムソモーレツ、ヤーシャの妹が煙草工場へ出てる。昨日その煙草工場見学にどっかの外国人が三人やって来た。ちょうど今みたいに昼休みで、食堂や図書室に婦人労働者連がガヤガヤしていた。すると、その中のニーナという女が、やっとロシア語の少しわかるその外国人をつらまえて、お前さん方、私共ソヴェトで社会主義がどんなにうまく行ってるか見に来たんだろ? サア、よく見て行っておくれ、私共が何を食って五ヵ年計画のために働いてるか。私達は餓えてるんだ! と喚き出した。
「工場委員会の文化宣伝部員の女が案内していたんだそうだ。ひどく泡くって、ニーナに怒りつけ、外国人を急いでそこから連れてっちまったんだとよ」
ボイラーの下へ片肘ついて横んなりながら草をひきぬいて噛んでた赫毛のボリスが、軋んだような声で呻った。
「――何だってまた、大衆の口へフタをしたんだね? そのスカート穿いた工場委員は?」
「判りきってるヨ。だって、そりゃ……判りきってる!」
ボイラーに腰かけ足をブラくってるちび[#「ちび」に傍点]のアーニャがせき込んだ。
「外国人て、どうせブルジュアか社会民主主義者じゃないか、恥だわ。階級の敵だよそんな女!」
「――奴等あ、それに、とても素敵な写真機械をもってるんだ。歩きながら写しちまうんだ。パチリ! すんじまう。……俺あ見たことがあるんだ」
驚歎と憎悪とを半々に浮べた眼付でノーソフが云った。
「そして、新聞へ出すんだ。例えば、ソヴェトの哀れな労働者は社会主義国に暮しながら、毎朝こんな混み合う電車にのって、工場へ通わなければならない。そう書いて出すんだ。……国防飛行化学協会《オソアビアヒム》のクラブ図書室へ行って見な、あるぜ。そのイギリスの新聞が」
みんな黙った。暫くすると、キャラメルの唾を吸いこみ吸いこみ、
「フン!」
とアーニャが顎をつき出した。
「じゃ大方イギリスの資本家は、さんざっぱら合理化してチョンビリ残した労働者を一人一人馬車へでものっけて運んでるんだろ!」
ワハハハハハハ。
「でかした小母ちゃん!」
「ついでに一つ英語でやってくれ!」
「――同志《タワーリシチ》!」
鼻の頭へヨード絆創膏の黒い小さい切《きれ》をはりつけた男が叫んだ。
「俺あ云うね、その煙草工場での経験は、『労働者新聞』の大衆自己批判へ投書しなくっちゃならねえと。その女は、ただニーナというだけじゃなく、何の誰それニーナと書かれて、プロレタリアとして云うべきことと云うべき場所ってものがあるのを知らされなくっちゃならねえ!」
「――事実[#「事実」に傍点]はどうするヨ」
グルズスキーがねちねち口を挾んだ。
「購買組合の棚は空だっていう事実[#「事実」に傍点]は、どうするよ。……お前ら空の小鳥に、家持ちの気持は分らねえんだ」
膝を抱え、ボイラーによっかかって熱心にきいている信吉からは見えないところで別の太い声がした。
「事実[#「事実」に傍点]は大事だ。そりゃ、レーニンも云った。だが、そりゃ事実[#「事実」に傍点]でなくちゃならねえ。――われわれが餓えてる? 一九二〇年のソヴェトじゃ事実[#「事実」に傍点]だった。今日の事実[#「事実」に傍点]じゃねえ。食い物は確につめてる。その代り工業生産はわれわれんところ、ソヴェトで一年
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