。
窓前の油布のかかったテーブルに、グリーゼルがその上で食物を拵えてた石油焜炉とコップが置いてある。
いつもは、通り抜けてばかりいたグリーゼルの室を、そっちこっち歩きまわって見た。
昨夜信吉が「文化と休み公園」から帰って来たのは十一時過だった。
果汁液《クワス》を飲みすぎたか、腹の工合が変なんで便所へ入って居睡りこきかけてたら、階段をドタドタ数人が一時に登って来る跫音がした。
便所の傍を通って、信吉が出て来たグリーゼルの借室の戸をあける音がする。跫音は沢山なのに話声がしない。
出て来て見て、信吉は一時に睡気を払い落された。
室の入口に突立ってるのは当のグリーゼルだ。
若い男が二人、寝台の下から乱暴にトランクを引っぱり出したり、寝台のフトンをめくったりしている。
卓子からちょっと離れたところに、脊広を着た中年の男と絹織工場の女工で住宅監理者のヴィクトーリア・ゲンリボヴナとが立って凝っとその様子を見ている。
信吉は閾のところで立ち止った。財産差押えに来たんだナ。そう思った。
ところが、若い二人の男はトランクを開けて中を検べるとそれをパタンとフタしてわきへどけ、封印なんかしない。
藤づる籠の古着の下から三本ブランデーの瓶が出て来た。それを中年の男が受けとって卓子の上へキチンと並べた。
いつの間にやら信吉のまわりは、同じ廊下の幾つもの借室から出て来た男女で一杯だ。
「何だい?」
次々にヒソヒソ信吉に訊いた。
「知らない」
しまいには、返事するのをやめた。
床板がめくられると下から、素焼の、妙な藁に包んだいろんな形の酒瓶が五本も現れた。戸口につめかけてる群集の中から刺すような甲高い子供の声がした。
「アレ! 父っちゃん。何さ? あの瓶? 何サ?」
「……黙ってろ」
グリーゼルと都合八本の酒瓶と三人の男は、無愛想に人だかりを分け階段を下りて再び行ってしまった。
忽ち、ヴィクトーリア・ゲンリボヴナが居住人に包囲された。
「みなさん、どうぞ静かに休んで下さい。グリーゼルは強い酒の密売で拘引されたんです。……知ってなさる通り、ソヴェトは勤労者の規律のために強い酒を売るのを禁じているんですから」
階段を下りかけて、彼女は、
「ああ、ちょっと」
と信吉を呼んだ。
「お前さんの室主は若しかしたら数ヵ月帰って来まいから、室代は直接住宅管理部へ払って下さい」
「――一本の歯になりゃその一本でソヴェトに噛みつこうとしやがる」
憎々しげに、隣に住んでるブリキ屋が室へかえりながら呟いた。グリーゼルは工場主で、革命まではこの大きい建物を全部自分で持って貸していたんだそうだ。
「土曜日だろう? 今夜は。……ソーレ見な。だから云うのさ、ニキータの婆さんだって今に見な、『軽騎隊』にひっかかるから」
ソヴェト同盟では、禁酒運動が盛だ。土曜、日曜に、モスクワの購買組合では一切酒類を売らない。ピオニェールや青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》が、官僚主義の排撃や禁酒運動のために活動する。その団体が「軽騎隊」なんだ。
暫くして、
「おい! いい加減にして来ねえか!」
横になってる信吉のところまで、怒ったブリキヤの声で廊下の女房を呼ぶのが聞えた。
今朝は、然し何も彼もいつもどおりだ。
内庭で信吉は建物の別な翼から出て来るエレーナに行き会った。
腕に買物籠をひっかけたエレーナは、信吉を見ると、後れ毛をかきあげるような風をして持ち前のカサカサ声で挨拶した。養育料請求のとき証人になってやってから、エレーナは信吉と口を利くようになったんだ。
「――知ってるか? グリーゼルが昨夜引っぱられたよ」
「知ってるよ」
二人は並んで古い木の門を出た。
「……お前困りゃしないのか? 金はどうするんだい?」
エレーナは、俯いて歩いてはいるが穏やかな悄気《しょげ》てない調子で、
「私は安心してるよ」
と云った。
「お金は、労働矯正所の方からチャンと送ってくれるんだってもの……あすこにはいい紡績工場があって、出て来れば工場へ入れるようにしてくれるんだヨ」
「ふーん」
「お前知らないだろ?」
熱心な口調でエレーナが云った。
「あすこには、学校も劇場もあるんだってさ。……私は安心してるよ。大抵よくなるんだもの、帰って来ると」
「グリーゼル、前にも行ったのか?」
「あの男は初めてだろう。……でも私知ってるんだもの……」
ソヴェトでは、監獄というものが資本主義国とはまるで別な考えかたで建てられてる。エレーナの不充分な言葉にこもっている信頼から、信吉はそれをつよく感じた。
「……私の死んだお父つぁんがね、行ったことがあるんだよ。それは工場で、みんなに渡す作業服の買入れをごまかしたからなんだけれど。――本を読むようになって帰って来たもの……そして、それから
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