が六十二ルーブリだったのが、今じゃ七十五ルーブリ以上だ。
 五ヵ年計画がはじまって、どの工場でも事業拡張だ。
 或る日、区職業紹介所から信吉に呼び出しが来た。
 窓口へ行って見ると、麻ルバーシカの男が、
「お前、自転車工場で働いてたことがあるんだな」
と云った。
「工場たって――小さい、田舎んだ」
「どっちだっていいサ。今、『鋤』で第三交代の旋盤工がいるんだ。行って見ろ」
「鋤? 何だね鋤って――」
「工場だ――農具をこさえる工場で、大きい工場だ」そして「お前が日本で働いてた、田舎の、小ちゃいんじゃないよ」剽軽に、信吉の訛ったロシア語を真似して笑った。
「体格検査をうけて、通ったら見習一週間。給料つき。それから本雇の給料は、工場委員会の技術詮衡委員がきめてくれる。――わかったか? サア、これがところ書だ」
 モスクワ、ヤロスラフスコエ街道。――
 モスクワも北端れだ。長く続いた工場の煉瓦塀の外に青草が生え、白い山羊が遊んでいる。貨車の引こみ線らしいものが表通りからも見えた。
 工場クラブの横に診療所があって、信吉といっしょに健康診断をうける男がほかに三十人ばかりある。
 信吉はズボンだけの裸んなって、腋毛を見せながら、白い上っぱりを着た中年の医者の前へ立った。
「さて……見たところ達者そうだね」
 信吉に舌を出させながら、
「お父さんとお母さんは丈夫かね」
「親父は丈夫です。お母は死んだ」
「何で?」
「知らない」
「肺病か、それとも――気違いじゃないか」
 医者は人さし指をコメカミのところでクルクルまわして見せた。
「そうじゃないです」
「――子供のとき、ひどい病気はしなかったかね?――……餓えたこたァないかね?」
 単純な恐ろしく真実な質問は信吉を深く感動させた。
 体格検査をうけたのはこれで二度目だ。内地で徴兵検査のときと、――市役所で、陸軍の将校が来て、猿又までぬがした。〔九字伏字〕ときみたいな調べかたをしたが、餓えたことはないかとは、訊いてくれなかった。
 信吉は丁寧に、どうにか食えてたと答えた。
「梅毒や淋病は患ってないか?」
 つづけて医者がきいた。
 旋盤の第三交代は、初め四日間、夜十二時から翌朝の七時まで働くと、まる一日休みで、次の四日間は朝八時から四時までにまわる。もう一度休みを挾んで、四時から十二時までの出番になって、その順でグルグルまわるんだ。

        二

 白っぽい樺板の羽目に赤いプラカートや、手描きのポスターが貼ってある。
 この頃また建てましをやった「鋤」の食堂だ。果汁液《クワス》だの一杯二カペイキの茶、スイローク(牛乳製品)なんぞを売ってる売店の上んところに、ラジオ拡声器がつき出ている。
 昼休みの労働者のための音楽放送だ。ところが今日はオーケストラそっちのけで、一つの長テーブルのまわりへ大勢がかたまってる。テーブルへ腰かけて、のぞきこんでる者もある。
「何ごとだい?」
 信吉なんだ。本雇んなって三日目の信吉が、弁当つかってたら偶然みんながいろんな質問をはじめて、こんなにかたまっちゃったんだ。
 水色と黒のダンダラ縞の運動シャツを着た若いのが、信吉のとなりで頻りに本をよみながら、ソーセージとパンをくってた。何心なく見ると、その本には機械の図解があって、むずかしそうな方程式が書いてある。
 ……職工でこれがわかるんだろか……。なお眺めていたら、その若いのがヒョイと顔をあげて、信吉を見た。毛色の違いにすぐ気がついた風だ。両方ともちょっとバツがわるいように見あったが、運動シャツの方が、
「お前ここに働いてるのか?」
と口をきった。
「ああ」
 信吉は、本を指さした。
「それ、わかるのかい? お前に」
「これか?」
 却って質問が合点いかないように運動シャツは本を持ちあげて信吉の顔を見ていたが、
「ああ、お前今度第三交代で入って来たんだろ」
と云った。
「俺は実習生なんだよ、工業学校からの……お前旋盤か?」
 それから、その実習生がきき出した。日本に共産党[#「共産党」に「×」の傍記]があるか? 労働者の賃銀はどの位だ? そこへ、別のテーブルの連中もそろそろやって来た。
「……話わかるのか?」
「通じるよ」
 すると、鞣の前垂れをした四十がらみの骨組みのがっしりした労働者が、
「お前、何てんだ?」
ときいた。
「シンキチだ」
「よし、よし。じゃあシンキーチ、きかしてくれ。お前ん国なんだね、〔四字伏字〕か?」
 テーブルへ肱をついて信吉の方を見ていたカーキ色シャツの青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》らしいのが、それをくだいて、
「〔九字伏字〕? まだ。それとも〔三字伏字〕か?」
と云った。
「〔八字伏字〕」
 ガヤガヤみんな一時に口をきいた。
 〔四字伏字〕なんだ。
 そうじゃない。日本には
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