をしながら、カサカサした声で女は話した。身持ちになったときグリーゼルは、俺には貯金が五百ルーブリもあるんだから、養育費を出してやると云った。それだのに赤坊が生れて十ヵ月経つのに一文もよこさないと云うわけだ。
「ソヴェトの法律は、女が自分に赤坊を生ませた男から、月給の三分の一までの養育費をその子が十八歳になるまで要求する権利を与えています。然し、それはただの口約束では駄目なんですよ。裁判できめなければ駄目です。――知らなかったんですか?」
「知りませんでした」
そう云ってエレーナは微に顔を赤くした。
ふーん。……じゃソヴェトじゃうっかり女に悪戯なんぞ出来ねんだな。
「証人、シンキーチ……」
女裁判官はよみ難そうに顔を書類に近づけて呼んだ。
「シンキーチ、セリサーワ」
立ってベンチを出てゆく信吉の後で、物珍しそうな囁きがあっちこっちで聞えた。
だれ? あの男――
知らないヨ。
支那人だろう。
――静にしろ!
女裁判官は、赤い布をかけた机ごしに信吉にきいた。
「いくつです?」
「二十二」
「職業は?」
「煉瓦を、こうやって槌でこわす」
信吉は仕方をやって見せた。
「それが仕事です」
「よろしい。……あなた、この女を知っていますか?」
子供の時分、学校の教壇のまえへよび出されたときみたいな心持に信吉はなった。全くソヴェトにはまだ新しいものと古いものがゴッタかえしてる。女裁判官は、そのゴタゴタに新しい社会の定規を当ててハッキリしたけじめをつけてやってるようなもんだ。
「知っています」
いろいろの質問に知ってるだけ答えた。
「エレーナ・アレクサンドロヴナとグリーゼルが一緒にいるのを見たことがありますか」
「え。庭で」
「そうじゃない。室で……寝床で」
信吉は、横に並んでる二人の方をジロリと見た。エレーナは細い娘っぽいボンノクボに力をいれてがんこに下を向いてる。
が、いい年をしたグリーゼルは、女裁判官ぐるみソヴェト裁判そのものをてん[#「てん」に傍点]からなめ[#「なめ」に傍点]てる風でヌーと立ってやがる。
「俺、朝働きに出る」
信吉は答えた。
「夕方、かえる。グリーゼルは一日家にいる。何をやってるか――悪魔が知ってら!」
この事件のほかにもう一つ、母親が息子に扶助費請求の聴取を終って、女裁判官はドアの奥へ引こんだ。書類をまとめて、二人の陪審員もついてった。
休憩なのはこっちの室だけだ。ドアのむこうでは、その間に判決を審議しているんだ。
四十分ばかりして、女裁判官と陪審員が再び現れ、グリーゼルは月十五ルーブリずつの養育費支払いを宣告された。
(※[#ローマ数字「III」、1−13−23])[#「(III)」は縦中横]
一
内地で自転車屋に奉公していたことが、計らず信吉の仕合せとなるときが来た。
ソヴェト同盟では、一九二八年十月から生産拡張の五ヵ年計画という素晴らしい大事業にとりかかってい、五年間に、つまり一九二八年から一九三三年の秋までに、同同盟の
(一)[#「(一)」は縦中横] 工業生産額を百八十三億ルーブリから四百三十二億に
(二)[#「(二)」は縦中横] 農業生産額を百六十六億から二百五十八億に
(三)[#「(三)」は縦中横] 電力を二十一億キロワット時から二百二十億キロワット時に
高めようという大計画だ。一年一年予算を立てて着々とやっている。
まだアルハラの山奥で××林業の現場に信吉が働いてた頃、松太がこういうこと云った。
「なんでもモスクワは今大した景気で、おっつけアメリカ追い越すぐれえだとよ」
豪勢なもんだナ。ボンヤリそう思っただけで、そのときの信吉にはもちろんそれが実際にはどういうことだか、見当もつかなかった。
アメリカに追いつくと云ったって、そう手っとり早く、いかに勤勉なソヴェトの労働者にだって出来るこっちゃない。
五ヵ年計画は、ソヴェト同盟の農業や工業発達の基礎となる生産手段=機械力をウンと高めるのが第一目的だ。五ヵ年計画では、その生産力で一年に三割ずつソヴェト同盟の全生産があがってゆく。
その割で十八年経つと、ソヴェトの生産は今大威張な工業国アメリカより五倍も多くなるわけなんだ。
今になって見れば、あんな山ん中にも、みんなが一生懸命になっている五ヵ年計画の噂はひろがってたことが信吉にわかる。
それに労働者の日当が三四割がた高まるから××林業は潰れるべと云った源も、案外的に当ったことを云った。
ソヴェト同盟じゃ、労働者が精出して働き国の富をませば、それを間で〔七字伏字〕って者がないから、みんな一人一人の労働者の毎日の暮しん中へ直に戻って来る。
賃銀が一年で二割ぐらいずつ全体あがった。アグーシャや劉夫婦なんぞ、絹の形つけ工だ
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