地主。――ふうむ。奴等のおこぼれで食ってるのは何だ?
「これが宗教家さ、次が淫売婦、ペンがついてるのが御用学者に新聞雑誌記者、政治家、役者だ」
 この時計は何だね。労働者が資本家に稼ぎ出してやった十七億八千万ルーブリを、労働時間に換算して見た図だ。
 これだけの金は、一人の労働者が一日十一時間ずつ働き通して、年六百六十ルーブリ稼いだことになる。しかし、本当に労働者が貰う賃銀は全体で八億なんぼで、それを一人宛の労働時間に割ると、たった五時間分だ。後の六時間というものを、そっくり資本家の腹をこやすために労働者が搾られているわけなんだ。
「ドウでえ!」
 信吉は思わずその図の上を叩いた。
「ドイツの学者は、こういうことまで調べているんだ。現在ドイツにあるだけの機械をちゃんと労働者のために使えば、ドイツじゅうの労働者が一生のうちにたった八年間、それも一年に一月近い休暇をとって、一日八時間ずつ働けば、本当の必要は充分みたせるんだそうだ。――だがドイツの労働者がソヴェトみたいに資本家ボイコくらないうちゃ、夢物語だ……」
 李の話がまんざら嘘でないことは信吉にもわかる。
 だがその理屈が毎日の暮しの中にはそんなに手にとるように現れてはいねえ。やっぱり社会の段々というものは目に見えるところにあって、信吉はモスクワで、自分がそのてっぺんにいる身分だとは思えないんだ。……
 トントン、パタパタ、
 トン、パタパタ。
 呑気《のんき》にかまえてた靴磨きのチビ連が、俄に台をひっさらって、鉄柵の前からとび退《の》いた。
 どいた! どいた! 水撒きだ。
 長靴ばきの道路人夫が、木の輪のついた長いゴムホースを、角の反宗教書籍出版所の壁についてる水道栓から引っぱって、ザアザア歩道を洗いだした。
 絶え間ない通行人はおとなしく車道へあふれて通った。
 四つ角で、巡査が赤く塗った一尺五寸ばかりの棒を、
 トマレ! ススメ!
 鼻の先へ上げたり、下したりして交通整理をやってる。遠くの板囲から起重機の先が晴れた空へつん出ていた。タタタタタタ、鋲打ちの響がする。
 仲間の一人が屑煉瓦の中から往来へ電気時計を見に行った。
「――おう、子供等茶の時刻だゾ」
 信吉は、ゆっくり伸びをしながら立ち上り、帆布手袋をぬいで鎚といっしょにそれを砕いた煉瓦の間へ隠した。――どれ、一時まじゃあ休み、と。――

        二

 焼きたてのパンの熱気と押し合う人いきれで、三方棚に囲まれたパン販売店の中はムンムンしている。
 信吉は煉瓦埃りのくっついたままのズボンで列の後にくっついて、辛棒づよく一歩ずつ動き、先ず勘定台で十二カペイキ払って受取の札を貰い、今度はパンをうけとるために続いてる列に立った。
 のろのろ前進しながらむこうの往来を眺めると、石油販売店の前から、ズット歩道の角まで列がある。
 よくよくものが足りねえんだなア。
 まさかモスクワがこんなじゃあるまいと思ったが、ひどい有様だ。こんなに列に立って買うパンが而も制限されている。めいめい住宅管理部から手帖をわたされて、その一コマ[#「コマ」に傍点]が一人一日分だ。
 肉も、石鹸も、布地も、砂糖から茶までそれぞれ日づけがきまっていて、その手帖から切ったコマ[#「コマ」に傍点]できまった分量だけ買うんだ。
 金があったって、手帖なしには買えないんだ。
 信吉のズッと前にいる婆さんは何枚コマ[#「コマ」に傍点]を持ってるのか、白い上っ被《ぱり》を着た女売子が両手で白パンをかかえては籠の中へ入れてやってる。ホイ、もう一本か。そう慾ばるない。
 次は、派手な緑色の帽子をかぶって折鞄をもった役人みたいな男だ。見ていると、白パンと黒パンをまぜて一斤半しか渡さない。コマ[#「コマ」に傍点]の色が信吉のと違う。茶色だ。
 誰でも二斤貰ってるんだろうと思っていた信吉は、それから注意して見ると、労働者らしくない体恰好の男女だけ、一斤半だ。ソヴェトだナ。体を使う者とそうでないものとは、ちゃんと区別してきめられているのだった。
 窮屈なりに、考えてら。
 信吉は、ちょっとわるくない心持になって、パンを食い食いブラリと先のコムナール(消費組合販売所)へよって見た。モスクワ市中で食糧品は野菜から魚肉類まで大抵コムナールで買うようになっているんだ。
 ところがこの頃ときたら、コムナールにはジャガ薯《いも》、玉ネギ、鰊ぐらいがあるっきりだ。
 見物がてらブラついていたんだが、信吉は急にパンをかむのをやめて一つの硝子箱へ鼻をおしつけた。
 米だぜ、こりゃ……!
「おい、ちょっと」
 順を待ち切れずに信吉は、若い男の売子を呼んだ。
「この米、なんぼ?」
「半キロ一ルーブリ三十五カペイキ――子供の手帖もってるかね?」
「子供の手帖?」
 バカにすんねえ。憚りなが
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