うかと思うと信吉が窓から日本の十九倍もあるシベリアの広い耕地の果を指して、
「あれ、あげえな機械が動いてる、何だべ」
と叫んだ。
「どれ?」
「ほれ、近眼で駄目か?」
「ああ、トラクターだ。耕作機械だ。近頃ソヴェトじゃあれで耕して蒔くようになったんだ」
「ふーむ。何しろでけえ土地だもんなあ……」
シベリア黒土地方の春を突っきって走る浦塩《うらじお》モスクワ直通列車の、万国寝台車では、ジェネワの国際連盟へ出かける二人の日本人とカナダのソヴェト農業視察団がめいめいの車室でウイスキーをなめている。三等車の板の棚の上では、どういう目的でモスクワへ行くのかはっきりわからない知識的な朝鮮人と、漠然プロレタリアートの幸運にあこがれている日本の若者信吉とが、黒パンの屑を捏《こ》ねてポツポツ喋りながら、揺られておった。
(※[#ローマ数字「II」、1−13−22])[#「(II)」は縦中横]
一
ひとり。
ふたり。
さんにん。
よにん――
十から十三四ぐらいまでの男の子が鉄柵の前へ並び、小さい木の磨台をおっぴらいた両脚の間へ置いて靴磨きをやってる。
「小父さん、磨かせな、よ!」
「黒靴みがき! 黒靴みがき、十カペイキ!」
トントン、パタパタ、
トン、パタパタ。
商売道具の細長い刷毛《はけ》で赫っ毛のチビが台をたたいてる。後は日の照りつけるクレムリンの壁だ。鉄柵との間に狭い公園があって、青草が茂っている。
信吉は、大通りのこっち側で、煉瓦砕きをやっている。教会の取こわしで、屋根はブッコぬけて、壁だけがまだ残っている。壁に細かい薄色煉瓦をはめこんで、天使だの、獅子だのの模様がついていた。信吉が、左手はミットみたいに先の四角な帆布の袋へつっこんで、せっせと砕いている煉瓦屑の表にも、そういう模様がついている。
モスクワへついて十五日目の、天気のいい昼まえだ。
――……だがどうもわからねえ。
モスクワへ着くなり、西も東もわからない信吉はすっかり李の厄介になっちゃった。住居権のことから、職業紹介所、住むとこのことまでして貰った。そして三日目にもう職にありついて、いい塩梅にこうやって働いてるんだが――わからねえ。
ソヴェトは労働者の国だ。働くものの天下だ。アルハラの山奥で松太がそう云ったし、信吉もバラックのロシア労働者ののんびりした自信ありげな様子で、それを感じた。
ところがモスクワへ来て見ると、そのソヴェトでも、決してみんな一様に暮してるんではねえ。
現に信吉はここで八時間一ルーブリ六十カペイキの煉瓦砕きをやっている。案外暮しは楽じゃねえ。
その信吉の目の前を立派な赤条入りの自動車にのった男が通って行く。しかし、下もあって、たとえば、あっち側の大きなパン店のところを見ろ。きっといつだって乞食の一人や二人ブルブルしながら立っているんだ。
なるほど、特別いい装をした男や女ってものはモスクワじゃ見当らない。シベリアを汽車で来る間に見ていたような男や女が、いそがしそうに一日じゅう踵を鳴らして歩いてる。
全国の職業紹介所は連絡していて、十日目ずつに労働省へ報告を出し、政府じゃ、どの産業に何人労働者が不足しているか、またあまってるかってことを、いつもハッキリ知って、ドシドシわりあてて行く。
ソヴェトでは、産業を他の資本主義国みたいに箇人箇人の儲け専一にやってくんではねえ。ソヴェトには人間が一億六千万いるんだそうだ。その人間が食って、働いて、休んで勉強するには、一年これこれのものがいる。だんだんいいものを沢山拵えなければなんねえから、その元手がなんぼいる。その勘定を土台にして全同盟の産業をやって行くんだそうだ。
「そこが、社会主義の世の中の価《ね》うちだ」
李がいつか汽車んなかで、松の実を食いながら信吉に話してきかせた。
「だから、ソヴェトじゃ、だんだん工場がいい機械もっているだけのものを廉く沢山こさえられるようになるにつれて、労働者の働く時間が短くなって来てるんだ。今はざっと八時間だが、二三年するとたった六時間と少し働けばすむようになるんだ」
そして、これを見たことあるか、と李は一つの図をあけた。なんだね、この両手ポケットさつっこんで眼玉ばっか引んむいてるのは。――ははん。資本家だナ。こいつが一九一三年に原料と機械に三十八億四千万ルーブリ出した。
盛に働いてるなあ労働者二百五十万人か。そして三十八億なにがしから、五十六億二千万ルーブリ稼いだ。儲がつまり十七億八千万ルーブリ! でけえもんだなあ。
そこでと、何だって? 労働者の賃銀はそのでけえ儲の中から八億二千万ルーブリ? あと九億六千万ルーブリってものは誰が分けて奪っちまうんだ。筆頭が企業家=資本家だね。なるほど。そいから実業家、政府の役人、
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