だ。
 話しながらブラリ、ブラリこっちへやって来ていた二人の日本人は、その声でヒョイと顔を向けた。そして、立ちどまった。
「何です?」
 年とった方が奇麗に剃った顎をあげて、上気《のぼ》せた穢い顔をしている信吉の方を見た。
「――朝鮮人だよ!」
「へえ……」
 そのまんま、またブラリブラリ……。
 ムラムラっとして信吉は、息が早くなった。どいてくれ! 近くの一人へ体あたりにぶつかった。何だと思ってやがるんだ。どけったら!
「国家保安部《ゲーペーウー》はいないのか」
 ピーッ。誰かが口笛を鳴らした。信吉の、若々しい生毛のある唇からは血の気が引いている。やけくそに、もう一遍つっかかって行こうとしたとき、
「どしたんだ?」
 おお。日本語だ! 新しくもない鳥打をかぶって、縁無眼鏡をかけた男が直ぐ、達者なロシア語で牛乳売の娘に何か云った。それから信吉に、
「君、いくら払ったんだ?」
「五十カペイキだ」
「この女は、一ルーブリ五十カペイキと云ったって云ってるんだ」
 二人の問答がはじまると、群集は和《やわら》いでガヤつきだした。
「この女の足へ、湯ぶっかけて逃げようとしたって、そうか?」
「冗談じゃねえ! そいつがとびつきやがった拍子に、ちっとぱっかこぼれたんです」
 縁無眼鏡が、ロシア娘にうまいこと一本参らしたと見えて、群集は機嫌よくドッと笑った。さすがにテレて娘は桃色の布の端をひっぱりながら、外方《そっぽ》を向いてる。――
 一ルーブリ五十カペイキもする牛乳なんぞ、誰が買うか!

        六

「どうもありがとうござんした」
 やっと人垣をぬけ出た信吉は洋服の袖で顔を拭いた。
「いきなりまくしたてられて、ドマついちゃった!」
 また顔を拭いた。
 少しはなれて、一緒に停ってる汽車の方へ戻りながら、縁無眼鏡が、
「どこまで行くんです」
ときいた。
「モスクワへ行くつもりなんですが……」
「誰かいるのかね」
「いいや」
「働く口があるんですか」
「そうじゃねんです」
 信吉は、人なつこい気になってチラリと相手の男を見た。風采は上らないが、自分より学問している人間なことが感じられた。
 汽車の下まで来たとき、その男は腕時計を見た。
「まだ二分ある」
 ――さっきから耳につくのはどこの訛りなんだろ。信吉は何心なく、
「あんた、どっからけ?」
ときいた。
「……朝鮮です。――ずっと北の雄基《ゆうき》の先だ……じゃ、また」
 スタスタ自分の乗っている車の方へ行ってしまった。
「ヤ」
 遅ればせに声を出したっぱなしで、汽車が動き出しても信吉は、ボンヤリしていた。――鮮人かい!……内地で鮮人と云えば、土方か飴売りしかないもんと思ってる。自分はそれよりひどい暮しをしている内地人だって、〔十四字伏字〕。
 震災[#「震災」に「×」の傍記]のとき、何でえ、〔八字伏字〕! 〔四字伏字〕! ハッハッハと新井の伯父は裏の藪で竹槍[#「竹槍」に「×」の傍記]の先を油の中で煮ていた。〔十九字伏字〕。だが、大した罰をくったこともきかなかった。
 その鮮人に計らず信吉は自分の難儀を助けられたんだ。
 次の朝、建物の前へ赤い横旗を張りわたした小さいステーションへとまったとき、あっちからやって来る縁無眼鏡の姿を見ると、信吉は何だか気がさした。
 けれども、対手は一向頓着ない風だ。
「やあ」
とむこうから声をかけた。
「きのうは、ありがとうござんした」
「いや」
 手にもっていた新聞をひろげながら、
「今日はノボシビリスクだね、シベリアもあと半分だ」
 信吉の気がほぐれた。ぶっきら棒に、
「日本語うめえね。俺、ホントに日本人かと思った」
「……日本人じゃないか!」
 縁無眼鏡は皮肉に薄笑いした。
「どこで言葉覚えたのけ? 東京かね?」
「ああ」
「勉強したのかね」
「うん」
「大学か?」
 その男は黙って煙草ふかしていたが、低い声で、
「旅券もってるか?」
と信吉にきいた。信吉はドキッとした。こいつ――知ってやがんだべか、ズラかって来たのを。――
「……お前は持ってるのか」
「…………」
 今度はその男が黙っていた。
 日本人夫の旅券は一まとめにハゲ小林が持っていて勝手にさせないんだ。
「どっからだ?」
 しばらくして対手が訊いた。
「――アルハラの奥だ」
「鉱山か?」
「林業だ」
 パッと力を入れて吸殻をプラットホームの土へ投げつけ、縁無眼鏡は靴でそれを丹念に踏みけした。
 縁無眼鏡の名は李と云った。
「じゃあ〔四字伏字〕と親類ぶんだハハハハ」
 汽車が動いてる間でも、信吉の場席へブラリと李がやって来るようになった。
「ホ。ホ。これだけの石油がウラルから来るようになったんだなア」
 引こみ線に止っているタンク型の石油運搬貨車を見て李がひとりで感服することがある。そ
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