をかついで、春の泥濘《ぬかるみ》にすべりながら低い川岸に散らばった。
 村に近い番屋で働くようになると、人夫の金使いが荒くなった。
 山から吹く風は冷たいが、太陽は汗ばむぐらいにぬくんで濁って水嵩のましたアムグーンの面や、そこを浮いて行く材木を照らした。川岸の腐った落葉の下から白い小さい雪割草の花が開いている。
 源がジャケツに腹がけ姿でトビ口に靠《もた》れながら或るとき、
「この川っぷちとも今年でおさらばか……」
と云った。わきに蹲《しゃが》んで、草の芽生えを眺めてた信吉は、顔をあげて訊いた。
「……なしてだい」
「この会社も、もう来年までやっちゃいかれめえよ。何せソヴェトじゃ労働者が主人で労働法がガン張ってるから、内地みてえにいろんな口実つけちゃ労働者をキッキと搾れねえ。内地の景気あガタ落ちでも、ここで材木一本伐り出す費用にゃかわりがねえんだ。それに、なんだってえもの、この頃は逆にこっちの景気がよくって、今に日当が三四割がた上るって話だもん、お前、会社あたまらねえや」
 源は、手洟《てばな》をかんだ。〔十七字伏字〕が土台から違うんだ。
 いよいよ、××林業の現場引あげが目の前に迫ると、若い信吉の心は苦しくなった。
 半年、大きくゆったりしたロシアの山の中で働いた後、喜久地村のいじけた希望のない暮しへは何としても戻る気になれない。この折をのがしたら、もう二度と日本は出られない。手をのばしさえしたら、途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。今、この折をのがしたら。――
 ロシアの春の夜の濃い闇の中で、信吉は幾晩も長いこと寝がえりうった。この機会をのがしたら、今はずしたら、いつ、うだつの上るときが来べ?――
 信吉はとうとう、明日××林業株式会社事務所出張所へ総集合という前の晩、谷間の六号番屋をズラかった。

        五

 だから、モスクワ行三等列車の棚の上で、卯太郎の手紙を眺める信吉の心は、しんみりしている。
 上《のぼり》列車がジマーというところで停ったときのことだ。みんながらがら汽車を出て行く。信吉も、カラーなしの縞シャツの上から黒い上衣をひっかけて、片手にヤカンをぶらさげ、群集にまじって熱湯配給所へ出かけた。
 もう、ずらっと男女の列だ。昔から、ロシアの停車場にはこういうところがついていて、旅客はただで湯をとり、自分の坐席で茶を入れて飲む習慣だ。
 熱湯配給所の小舎のわき、棚の前へ土地の物売りが並んでいる。
 ゴムの尻当てみたいな輪パンがあるナ。いくらだ? 四十五カペイキ? たけえ!
 樺の木の皮へつつんだバタを売ってる女がある。
 次は――玉子。
 バケツに塩漬|胡瓜《きゅうり》を入れて足元においている婆さんから信吉はそれを三本買った。ナイフで薄くきってパンにのせて食うんだ。
 焼豚の脂肉《あぶらみ》――
 鶏の丸焼もあるが、ヤカンを下げた連中は値をきくだけで通りすぎちまう。
 やっぱり気をつけて金をつかってるんだ。
 柵が終ろうとするところに、桃色の布をかぶった十五六のぼってりしたロシア娘が、可愛らしい口に細かい黄色い花の小枝を咬えながら、牛乳を売っている。
 信吉は何しろ財布があやしいから胡瓜やオーブラ(干魚)で幾日もしのいで来ている。不意と濃い牛乳を流しこんで見たくなった。
「なんぼ?」
 四合瓶に一杯つめたのを指して訊いた。
「五十カペイキ」
 しめ、しめ! 確にそうきいたと思い、信吉は牛乳瓶をとって、娘の手へ五十カペイキわたした。
 すると、どうしたこった! 娘はいきなり口から花の枝をほき出すなり大きな声で何か叫んだ。信吉の手元へとびついて来て、持ってる牛乳瓶をひったくろうとする。冗談か? そうじゃない。何すんだ! 不意をくらった信吉が思わず肱で娘をよけようとした拍子に、ヤカンからちょんびり湯がこぼれた。娘の足にそれがかかった。娘は大業な悲鳴をあげた。
 瞬間の出来ごとだった。が、忽ちまわりに人がたかって来た。
 何だい。
 どうしたんだ。
 支那人じゃないか?
 すると娘は、涙も出ていないのに甲高な啜《すす》りあげるような早口で、何か訴える。何を云うのかわかりゃしない。
 信吉は面倒だから、人の間をぬけて出てしまおうとした。どっこい! いつの間にか、四十がらみの黒ルバーシカを着た大きい男が信吉の肱を軟かく、しかし要領よく掴んでいる。
「|買ったんだよ《クピール》! |買ったんだよ《クピール》! うるせえ奴だナ」
 それをおっかぶせて、娘がまた啜りあげるような早口でまくしたてる。――
 途方にくれた信吉が、そのときオヤという顔をして人だかりのあっちを見た。視線を追って、数人がそっちを見た。
 何だ?
 ――日本人だ。
 いい装《なり》をしているんで、尊敬をふくんだ云いかた
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