ら一人前の大人だよ。信吉は威勢よく、
「これだ!」
と、ポケットからまだ新しい手帖を出して見せた。
「それじゃ駄目だ」
どうして※[#疑問符感嘆符、1−8−77] すると、売子に砂糖をはからしていた若い女が愛嬌いい眼付で、笑いながら、
「米は、子供の手帖でだけ分けてくれるんだよ。それでなけりゃ、こういう手帖でなけりゃ駄目なのさ」
そう云って自分の赤い色の手帖を見せてくれた。
勢が挫けた信吉はおとなしく、
「それ、何の手帖だね」
ときいた。
「消費組合員の手帖さ……」
そして、いかにも気軽い調子でその女は信吉に云った。
「お前さんもお買いなね……どうして買わないの? 働いてるんだろ? じゃ何でもありゃしない。――あの窓口へ行ってそうお云い……ホラ、あの窓……」
年かさの女にすすめられ、信吉は断りきれなくなって、空箱をつみ上げた横の窓口へ行った。振向いて見ると、世話好きな女はちゃんとまだこっちを見ていて、
「そこ、そこ!」
指さして、首をふってる。
その様子を見て耳飾りを下げた若い窓口の娘が声をかけた。
「お前さん、なに用?」
モスクワじゃ役所でも店でも、どっちを向いても女が多勢働いている。信吉は、頭を掻いちまった。
娘は、おかしそうに、小脇にパンを抱えたなり云うことが解らないでいる信吉の恰好を見ていたが、
「若しお前さんが組合員になりたいなら、はじめ一ルーブリだけ、出しゃいいんですよ。それから後は、毎月お前さんがいくら稼ぐか、それによって、割合で払うの」
と、ゆっくり、言葉を区切って説明した。
「――俺、今金ないんだ」
「それがどうなのさ! じゃ、またあるときにお出でな」
わかんねえことがまた一つ出来た。組合へ入っていない者だって労働者という点では同じだ。ソヴェトが労働者の国って立て前で、一応手帖で金の威光を封じてるように見せてるが事実金だして買った別の手帖もってれば、食物でも何でも余分に貰える。そうとすりゃ、同じこっちゃねえのかしら? やっぱし、金のある者が金のねえもんより沢山取ることんなるんじゃねえか?――
その金をどうしてとるかと云えば働いてとる。社会を運転して行くために必要な労働なら、仕事に上下はないと李が云ったのを思い出し、一層わけが分らなくなった。
信吉が煉瓦砕きしてとってる金は、決して、折鞄抱えてあるいてる技師の月給と同じじゃない。労働者の権利が平等な筈のソヴェトで、何故賃銀の違いが在るんだろうか。
二百三十万近い人間のいるモスクワで、信吉がこんなことをきける者が五人いる。第一が李だ。それから劉と女房のロシア女アンナ。次がその劉の室へカーテンで仕切りをこさえて一緒に住んでる若い靴職のミチキンと、女房のアグーシャだ。
アグーシャは、劉、アンナと同じ絹織工場の型つけ職工だが、区の代議員ていうのをやっている。女でも演説が出来るんだ。
信吉が訊けば、きっと話してくれるんだろうが、不自由なもんだなあ、言葉がダメだ。
李なら、いいんだが、この頃、滅多に会えなくなっちゃった。どっかへ行って、まるで信吉の分んない仕事を忙がしくやってるんだ。――
三
或る夕方のことだ。
ぶるッと身震いして、信吉は目を覚した。いつの間に眠ったのか、靠れていた窓の外で庭がすっかり暗くなってる。菩提樹《ぼだいじゅ》の下にいつも夜じゅう出しっぱなされている一台の荷馬車の轅《ながえ》が、下の窓から庭へさす電燈の光で、白く浮上っている。ブーウ……隣の室で石油焜炉の燃える音がする。
おや、親爺今日は休みか……思う間もなく、クッシャン。嚔《くさめ》が出た。またクッシャン。つづけ様に嚔をした信吉があわててしっとり冷えたシャツの上へ上衣をひっかけていると、
「いいかね」
宿主の大坊主グリーゼルがのっそりと現れた。
やっぱり信吉ぐみで、シャツはカラなしだ。コーカサス製の上靴をひっかけてる。血管の浮出たギロリとした眼で信吉を見据えながら、
「ソラ、お前さんへだ!」
横柄に手紙みたいな書付をつき出した。
実のところ、信吉にとってこの親爺は苦手だ。というのは、こいつには、何だかほかのロシア人と違うようなところがある。親しみ難くて、この親爺の剃った頭とドロンとして大きい眼を見ると、腹ん中では何を考えているのかわからないという気がいつもするんだ。
信吉は、疑りぶかく手を出して手紙をうけとった。手紙なんて……一体、どっから来るんだ。――
親爺は、信吉があけてそれを見るのを突立って待っていて、
「何だね?」
と云った。信吉はムカついた。親爺はちゃんと自分で知ってるのにわざと訊いてるような調子だ。
「知らね、俺《お》らよめねえよ」
口惜しかったが、仕方がない。
「何だい」
ジロリと信吉を見て紙を受とり、親爺はそれ
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