を開いて、
「……こりゃ裁判所の呼び出しだ」
信吉に紙をかえした。
――裁判所?……冗談じゃねえ。何を俺がしたんだ。――ムキになりかけた。が、……畜生! 信吉は、その手を食うもんか! と手紙をいそいで畳んで上衣の内ポケットへ入れ、鳥打帽をつかんで室を出た。
アグーシャは、この親爺がどんな奴だかよく知らなかったんだ。ただ、この古い木造の家全体を管理している女が、絹織工場でアグーシャと一緒だもんで、信吉をここへ世話してくれた。
モスクワは古い町なのに、革命からこっち政府が引越して来たんで、住民は殖える一方だがとても住居が足りない。政府は補助金をどっさり出し、職業組合の共同住宅はドシドシ建つがまだそれでも足りない。
だから靴職ミチキンや信吉みたいな二重の間借人が出来る。信吉は入道のもってる七尺に九尺ばかりのところを一月五ルーブリの約束で借りてる。親爺は、信吉に、
「この室は、音楽家が」
ヴァイオリンを弾く真似をして見せて、
「二十ルーブリで住んでたんだ」
と云った。住居は、ソヴェトでは殆ど全部が国有だ。借りては、自分の収入に応じて、家賃を払う仕組みなんだ。ふむ。そうなけりゃなんねえ!
だが、古いこの木造の家に幾世帯も住んでるのは工場へ出ている労働者より、馬車引きや、信吉んとこの親爺のように許可露天商人みたいな稼業のものが多い。
この親爺は信吉が字がよめないもんだから、この前も、何だかスタンプ押した紙を見せて警察がどうとかだから一ルーブリ五十カペイキ出せと云った。
警察《ミリチア》、警察《ミリチア》って云って紙を押しつけ、手の平をつきつけた。警察にビクつく癖のついてる信吉は、あやうく一ルーブリ五十カペイキ出しかけたが、銭の惜しさが先立って、その紙を劉のところへ持ってって見せた。
そしたら親爺め! 信吉の住居届けを倍にふっかけようとしていたじゃねえか。大方、今度もそんなこったべ。
若葉の並木道はアーク燈に照らされ、歩いてゆく左右に高く青々した梢が見えた。ベンチはどれにも人がいるが静かで、アーク燈の下をブラブラ歩いてる者の声高の話だけが、しっとりした夜気に響く。
信吉は、いつもみたいに、わざと男と女とかけているベンチのあっち側を歩くような悪戯もせず、トット劉の住居へ向って歩いた。
革命まで一流のホテルだったという建物は大きくて、町の表通りや横通りにも入
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