。労働者の権利が平等な筈のソヴェトで、何故賃銀の違いが在るんだろうか。
 二百三十万近い人間のいるモスクワで、信吉がこんなことをきける者が五人いる。第一が李だ。それから劉と女房のロシア女アンナ。次がその劉の室へカーテンで仕切りをこさえて一緒に住んでる若い靴職のミチキンと、女房のアグーシャだ。
 アグーシャは、劉、アンナと同じ絹織工場の型つけ職工だが、区の代議員ていうのをやっている。女でも演説が出来るんだ。
 信吉が訊けば、きっと話してくれるんだろうが、不自由なもんだなあ、言葉がダメだ。
 李なら、いいんだが、この頃、滅多に会えなくなっちゃった。どっかへ行って、まるで信吉の分んない仕事を忙がしくやってるんだ。――

        三

 或る夕方のことだ。
 ぶるッと身震いして、信吉は目を覚した。いつの間に眠ったのか、靠れていた窓の外で庭がすっかり暗くなってる。菩提樹《ぼだいじゅ》の下にいつも夜じゅう出しっぱなされている一台の荷馬車の轅《ながえ》が、下の窓から庭へさす電燈の光で、白く浮上っている。ブーウ……隣の室で石油焜炉の燃える音がする。
 おや、親爺今日は休みか……思う間もなく、クッシャン。嚔《くさめ》が出た。またクッシャン。つづけ様に嚔をした信吉があわててしっとり冷えたシャツの上へ上衣をひっかけていると、
「いいかね」
 宿主の大坊主グリーゼルがのっそりと現れた。
 やっぱり信吉ぐみで、シャツはカラなしだ。コーカサス製の上靴をひっかけてる。血管の浮出たギロリとした眼で信吉を見据えながら、
「ソラ、お前さんへだ!」
 横柄に手紙みたいな書付をつき出した。
 実のところ、信吉にとってこの親爺は苦手だ。というのは、こいつには、何だかほかのロシア人と違うようなところがある。親しみ難くて、この親爺の剃った頭とドロンとして大きい眼を見ると、腹ん中では何を考えているのかわからないという気がいつもするんだ。
 信吉は、疑りぶかく手を出して手紙をうけとった。手紙なんて……一体、どっから来るんだ。――
 親爺は、信吉があけてそれを見るのを突立って待っていて、
「何だね?」
と云った。信吉はムカついた。親爺はちゃんと自分で知ってるのにわざと訊いてるような調子だ。
「知らね、俺《お》らよめねえよ」
 口惜しかったが、仕方がない。
「何だい」
 ジロリと信吉を見て紙を受とり、親爺はそれ
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