むべきか」簡単なインド事情紹介の本の名があげられている。
「|若い観衆《トユーズ》の劇場」は芸術的な演出、特色あるギリシャ式舞台でヨーロッパ各国に知られている。芸術部員は、研究室をもって、舞台装置、衣裳、照明。専門にわかれ、それぞれ最近の様式をとり入れて、劇芸術としての完成を努めている。
 一方、教育部は、いま日本女のとなりに腰かけて、注意深く舞台と若い観衆との間におこる呼吸のメリ、ハリを観察している白い髯の教育部長をはじめ、どうしたら子供をよろこばせ、しかもその間に労働、政治、科学、芸術の訓練をあくまで社会主義的主題の内に統一して与え得るかということを熱心に研究しているのである。
 劇場の入口に一枚大きなビラが貼ってあった。六月十日から二週間の上演順序である。
 十日――十五日。インドの子供。(三年生のために)
 十六、七日。皇子と乞食。(二年生のために)
 十九――二十一日。アンクル・トムの小舎。(四年生のために)
 観衆の年齢に応じて、脚本の内容はだんだん複雑になって来ている。それより日本女を羨ましがらせたのは、その下の「五月二十九日からの切符配分」という表だ。レーニングラード市内各区の、小学校・ピオニェール分隊・児童図書館・子供の家・工場学校は、それぞれきまった日に、この「|若い観衆《トユーズ》の劇場」から無代の切符配分をうける、その予告なのである。
 親たちは大人の劇場へ職業組合からの半額、あるいは無代の切符をもって。子供は子供の属す組織を通じて「|若い観衆《トユーズ》の劇場」へ! ここにソヴェト同盟の劇場の、晴れやかな歓びの源がある。
 たとえ、或るものはまるきり無代でないにしろ、二十七カペイキの切符代で、こんな面白い、そしてためになる芝居が観られる。ソヴェトの子供は、仕合わせだ。――彼らの親、兄、姉が、そのためには血で「十月」を勝ちとったのだ。
(子供のための劇場は、モスクワにも二つある。)
 二幕目がすむと、隣にすわっていた白い髯の教育部長が、
 ――どうです?
 ニコニコ笑って日本女をかえりみた。
 ――退屈じゃないでしょう? 案外。
 日本女は、古典的なマリンスキー劇場で、「眠り姫」を見るよりは遙か面白いと正直にいった。それは、世辞ではない。インドの小娘スンダーリが親たちの迷信の犠牲になって、どっかの寺へ献上されてしまう。ウペシュがそれを知って悲しみ嘆く。「|若い観衆《トユーズ》の劇場」教育部がそこでいおうとしている迷信の力と科学の力との対照は、うまい演劇的表現で、大人をもひきつける面白さである。
 ――これは、割合成功したと我々も思っています。だが、往々大人は子供の心持をかんちがえするのでね。いつも研究が必要です。
 幕あいが十五分ある。日本女は、お爺さん教育部長のうしろについて、廊下へ出た。子供。子供。子供の国だ。
 ――今日は! セミョン・ニコラエヴィッチ!
 赤い襟飾をつけたピオニェール少年が挨拶する。
 ――セミョン・ニコラエヴィッチ! こないだの絵もって来ました。
 そういうのは、そばかすのある女の子だ。
 ――そうか。じゃこっちへ来なさい。
 ――僕も一緒に行っていいですか? セミョン・ニコラエヴィッチ。
 セミョン・ニコラエヴィッチと小さい日本女は、いろんな鼻つきをした子供の群にかこまれて、子供だらけの廊下を行った。賑やかな廊下を歩くのは、むつかしかった。廊下の左右には、ズラリと絵がかかっている。それに子供がたかって見ている。
 ――あれはどういう絵です?
 ――ここで、芝居を見た子供たちが、その印象を描いたものです。
 日本女のわきにくっついて歩いていた女の子が、仲間に、
 ――サーシャの描いたのもあるよ。
 ふりかえっていっている。
 狭い戸をあけて、セミョン・ニコラエヴィッチは廊下の横の小部屋へ日本女と一かたまりの子供たちとを入れた。
 ここのも壁絵だ。廊下にかけてあるのよりは小さい児の絵である。色鉛筆で、目玉ばかりみたいな人間の顔や、四本足のフラフラしたあやつりの馬にのっかった子供の姿などがある。
 ――さあ、子供等これをお客さんに見せてあげなさい。
 太い巻物を、一人のピオニェールに、セミョン・ニコラエヴィッチがわたした。
 ――なに? なに? 見せて!
 ――どけよ。そんなに顔だしちゃ邪魔んなるよ。
 それは、「|若い観衆《トユーズ》の劇場」教育部員が苦心して製作した、児童の心理統計とでもいうものだった。
 ――仮に、この「インドの子供」をはじめて公演したとしますね。
 セミョン・ニコラエヴィッチが説明した。
 ――我々は十分注意してヤマ[#「ヤマ」に傍点]のおきどころ、心持の変化――恐怖、よろこび、好奇心、滑稽などを、教育的な筋の上へ按配するのです。しかし、実際に当って見なけれ
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