フが、太い指で粗末な赤ラシャ張の椅子におちてる埃をひろいながらいった。
――しかし、家具はもとのまんまです。
こっちの室も床は木だ。
――スモーリヌイには、もっと広い、もっと立派な室がうんとあるんです。お姫さんの学校だったんだから。ところが、レーニンは、ここが好きだ。立派なところに坐ると窮屈だと笑って、ここに暮していた。
レーニンが、世界の歴史を一転させた十月革命を通して、贅沢どころか一身の休みを考えるひまさえなかったことは、誰にでも分るけれども、質素をきわめたレーニンの室を眺め、窓からスモーリヌイの巨大な建物の裏側の景色を眺めているうちに、日本女は、一枚の地図を思い出した。
それはやっぱり、モスクワのレーニン博物館にあったものである。ロンドンにレーニンが亡命していた時、同志にある会合の場所を教えてやるため、白い紙きれに書いてやった地図だ。よくかいてある地図だった。非常に、はっきりしている。それでいて、こまかくいろんな横道が万一の時の用心にきっちりかかれている。ロンドンのいりくんだ下街のゴチャゴチャを、外国人のレーニンがああいう風に精密に我ものにしたところに、そして、また地図を書いてやるその書きかたに彼の指導者としての器量をつよく感じた。
その地図の注意深い、はっきりした黒い線が、このスモーリヌイのレーニン室で、窓からそとの屋根を眺めて、日本女の記憶によみがえって来た。この室の位置、屋根から屋根へのつづき工合、スモーリヌイの裏をまわってゆるやかに流れているネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河の支流。それらの間に、レーニンは、あのでかい丸い頭のなかできっちり組織的な線をひっぱっていたことを、日本女は感じた。
「いや、ここばかりではない」日本女はそう思った。地球をぐるりと一まわりして、今は組織のつよい一本の線がある。プロレタリアートがヨーロッパ戦争後のひどい階級的重圧と闘いながら次第次第にやき鍛えている一本の、熱い、世界をかこむ線がある。
奥の室を出たところでムイロフが、
――これ、見たことがありますか? と壁の上を指さした。
――ああ。知っています!
十月二十五日の夜臨時政府内閣が捕縛されたときの号外が、そこに貼られていた。
未来の交代者《スメーナ》
ソヴェト同盟が、この地球でたった一つの社会主義国として自分の国を守り、将来、社会主義的社会をますます完成させて行くためには、どんなに次の時代というものに注意を払っているか分らない。
革命以来、ソヴェト同盟は、あらゆる法律の力で、生れて来る赤坊の生存権を保護して来た。たとえば、姙娠している労働婦人は出産前後四ヵ月の有給休暇を貰う。出産のための産院は無料だ。赤坊のキモノや何かのための支度金を二十五ルーブリから三十五ルーブリぐらいまで貰い、出産後九ヵ月間は特別に赤坊の哺育料を貰う。「母と子の相談所」と託児所はあらゆる区に配置されている。そして労働法は生後十ヵ月までの子をもつ母親の解雇、姙娠五ヵ月以上の女の解雇をごくごくやむを得ない場合以外は厳禁している。
小学校、工場附属技術学校、いずれも国庫および職業組合の負担で、プロレタリアートの児童のために開放されている。
特にピオニェールは、プロレタリア階級の前衛として社会主義社会建設と拡大とのために必要なあらゆる注意のもとに教育されつつあるのだ。
教育は、決して学校の教室においてばかりされるものではない。それはブルジョアの親方でもよく知っていることだ。ゆえに、革命までの冷いロシアはどうであったか?
黒い裾をひきずって、長い髪をたらした坊主が、小学校、中学校の教室を初めとして、家庭の内へまでやって来た。そして、十字架を握った冷っこい手を子供の唇へ押しつけて、こわい声でいった。
――お前、この世で一番偉い方は誰だか知っているか。
――神さまです。
――その次には?
子供は坊主の赤い鼻を見上げて機械的に答える。
――ツァー(皇帝)です。
――よし。お前は先ず神のおっしゃることを、即ちツァーのおっしゃることに、絶対に服従しなければならぬ。よいか?
――ええ。
坊主は、子供の頭に十字を切ってやって、いう。「神|爾《なんじ》とともに在れ!」
ブルジョアは自分達の劇場をもっていた。自分達の絵画館をもっていた。働く人間、彼らのいわゆる「黒い町」の住人どもに与えられているのは、ブルジョア国家がその税で富むところの火酒《ウォトカ》と教会と無智であった。(労働者農民の子は大学に入れなかった。兵役につけば終身兵士以上にはなれなかった)。そしてもちろん、ブルジョアが美しい馬にひかせた橇で雪をけたててやって来る劇場へは、入るどころではなかった。(侯爵であったクロポトキンでさえ、学生の制服姿のと
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