そこからは石鹸くさい湯気が立ち上り、窓枠の外の石がぬれている。石の隅に青苔がついていた。
 その中庭へ荷馬車が入って来たら蹄の音が高くあたりの鼠色の建物に反響した。
 二人の日本女が歩いてるハルトゥリナ通りにしろ、もとのニェフスキー・プロスペクトにしろ、モスクワとは違ってみんな木煉瓦の鋪装である。蹄の音はそこで柔かく、遠く響く。昼の街のしずかさが一層感じられた。

 鉄門が片扉だけあけはなされている。
 大理石像が壊れて土台の下に落ちている。まわりを埋めて草が茂り、紫のリラの花が咲いている。ベンチに、帽子をかぶらない女があっち向にかけて本を読んでいた。またそのむこうはフランス風の鉄柵だ。河岸通り。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河の流れがその鉄柵をとおして見えた。
 こういう門の中に、レーニングラード対外文化連絡協会《ヴオクス》があるのだ。
 厚い紅い色の絨毯が敷いてある。金塗の椅子やテーブルや鏡がそこの室内にはある。楕円形の大テーブルに、ソヴェト内地旅行案内のパンフレットや対外文化連絡協会の週刊雑誌などがきちんとならべてあった。
 СССР地図を後にして一人のソヴェト的紳士がかけている。室の真ん中にタイプライターが一台おいてあり、それに向ってほっそりした、これもごく教養的な女が膝を行儀よく揃えて坐り二人の日本女のために幾通かの紹介状をうってくれた。
 出て来た時には、リラの木の下のベンチにもう誰もいず、門の前の歩道を犬をつれた男が散歩していた。ステッキをその男はゆうゆうついている。ほほう!
(モスクワ第一大学の建物は黄色い。横の歩道へ立って午後そこへ現れて来るステッキを見ろ。ステッキの持主はみんな革命の市街戦で脚のどっかを工合わるくしたものばかりだ。)

 燈柱の堂々たる橋がある。

 公園だ。十月革命の犠牲者の記念がある。三色菫《イワンダマリヤ》の花盛りだ。赤っぽい小砂利が綺麗にしきつめられ、遠くの木立まですきとおる静寂が占めている。木立の上で、緑、黄、卵色をよりまぜた有平糖細工みたいなビザンチン式教会のふくらんだ屋根が、アジア的な線でヨーロッパ風な空をつんざいている。
 掘割に沿って電車が走って行く。

 再び公園だ。菩提樹のなかにロシアのイソップ・クルイロフの銅像がある。ひろい斜面に花や草で模様花壇がつくられていた。赤や緑の唐草模様だ。モスクワ劇場広場の大花壇のように星形でも、鎌と鎚とでもない。

 ピーター大帝は曲馬場横の妙な細長い広場で永遠にはね上る馬を御しつづけ、十二月二十五日通りの野菜食堂では、アルミニュームの食器の代りに、白い金ぶちの瀬戸の器をつかっている。ドイツ語の小形の詩の本をよみながら黒い装いをした一人の婆さんがその野菜食堂の階子段の横に腰かけ片手を通行人にさし出していた。レーニングラードの乞食女である。

 兵営がある。兵営の下は黒っぽい水のゆるやかに流れる掘割だ。上衣の襟フックをはずした赤衛兵が一つの窓に腰かけてまとまりなく手風琴《ガルモシュカ》を鳴らしている。ソヴェト・ロシアの兵士は、ソヴェトに選挙された時、二種の委員をかねる権利を与えられている。入営まで職についていれば除隊後新たに就職するまで失業手当を支給される。親が例えば選挙権をもたないでも息子が赤衛兵ならば集団農場に加入を許される。
 手風琴を鳴らして赤衛兵が腰かけている窓の下の掘割を、ボートが一艘漕いで来た。ボートの中には二列に赤衛兵がつまって四人がオールを握っている。一人がギターを抱えている。
 その掘割は、牛乳なんかを入れる素焼壺をたくさん婆さんが並べて売っている橋の下を通り、冬宮わきからネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河へ通じた。

        スモーリヌイ

 ある日、一人の百姓婆さんが電車へのって来た。更紗の布《プラトーク》を三角に頭へかぶり、ひろい裾《ユーブカ》の下から先の四角い編上げ靴を出して、婆さんは、若い女車掌に訊いた。
 ――サドーワヤへはどう行ったらよかろかね?
 ――十月二十五日通りをのってって三月十八日で降りなさい。
 ――へ? 十月二十五日から三月十八日※[#疑問感嘆符、1−8−77] おらおっちぬよ、そんけ乗ったら、この年で……
 これは、革命後ロシアではいろんな町名が変えられ、それが大抵世界のプロレタリアート革命運動に関係のある年月日、人名などを揶揄ったレーニングラード人の笑話である。
 冬宮は、その旧ニェフスキー・プロスペクト・十月二十五日通りとネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河との間にある。
 革命第十一年目、六月の或る朝。朝日がまんべんなく冬宮前の広場にさしている。まだちっとも暑くない。軽い朝日を受けてこっち、ハルトゥリナ通りの方から一人、黒い書類入鞄を下げた女
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