建物をもっている。そして遠いか近いか、やっぱり同じ市のどこかに「学者の家」をもっている。社会主義文化建設のための専門技術家である学者達が、会議、見学、ごくたまに私用でその市へやって来る。外国から来る者もある。ホテルに室がなかったり費用がかかりすぎる場合、静かに簡単な何日かの滞在をするため、事情によっては無料でその「学者の家」を利用する便利を与えられている。
まして外国人である場合、「学者」という定義の解釈が四通八達である実例は、女監督エレーナ・アレクサンドロヴナを母さんと呼びかけそうになじんでここに暮している日本青年Nによって示されている。彼は将来学者にもなるだろう。だが現在のところではNがひどい砂糖ずきである以外学者の徴候は現してない。また、二人の文筆労働者である日本女の滞在によっても証明される。
日本女は、室の隅におかれた大きな旅行籠の前へひざまずき、ともかく茶を飲むべく、四角な茶カン、二本のアルミニュームの匙、砂糖を出して、古風な更紗張テーブルへおいた。
アメリカからエジソンがソヴェト見学にやって来たとする。ゴーリキーがソレントから故郷へ客に来たとする。彼等の荷物にもちろんこんなソヴェト市民の旅行籠なんぞないにきまっている。
時間さえあったらエジソンは「学者の家」を訪問することをこばみはしない。そして、流暢なアメリカ語をしゃべる通弁から、ここが革命までは何という貴族の邸宅であったか、現在は年に何千人の学者に便宜を与えているか、ソヴェト・ロシア文化施設の一端をききとるだろう。が、エジソン自身ここへは泊らぬ。彼の有名な食糧鮭の切身をはかるハカリがないからだけではない。学者でも、エジソンみたいなのは泊らないのだ。
ゴーリキーにしろ、意味なく帝政時代に室内監禁をくったのではない。ウラジーミル大公の食堂に今日一皿二十カペイキのサラダがトマトと胡瓜の色鮮やかに並び、シベリアの奥で苔の採集を仕事としている背中の丸い白い髯の小学者が妻と木彫のテーブルについているのを眺めることは絶対に不愉快でありえない、しかし、ゴーリキー自身のためには別なところにソヴェトが室を与えるだろう。
日本女の室がある方の建物の翼は、ウラジーミル大公時代、親戚とか召使の頭とかが住んでいたのだそうである。うねって、暗い廊下だ。どこにも窓のない壁の厚い廊下には、湿っぽい古くさい匂いがある。
台所は明るい。窓が晴れやかに開いて、その窓際に台があって、薄い色の髪の毛がすきとおるような工合に光線を受け一人の背広をきた中老人がハムを刻んでいる。わきに小鍋と玉子が二つころがっていた。
むき出しの頑丈そうな腕を大きい胸の上に組んで、白い布をかぶった女が中老学者の家事ぶりを眺めていた。彼女は日本女を見ると珍しそうに目で笑い、だが何にも余計なことをいわず、頼まれただけの湯呑《クルーシュカ》と急須とをゆっくり棚からとってくれた。湯呑《クルーシュカ》の一つに赤旗を背景に麦束をかこんだ鎌と鎚の模様がついていて、黒い文字で「万国のプロレタリアート、結合せよ!」
ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河のはやいひろい音のない流れでめまいしそうなのは表側――河岸通に向った室だけだった。壁画のある、天井の高い大食堂の窓からは、灰色のうろこ形スレートぶきの小屋根、その頂上の風見の鳩、もと礼拝所であったらしい小さい四角い塔などが狭くかたまって見えた。塔の内に大小三つの鐘があるのも見える。
ガラス張の屋内温室の、棕梠や仙人掌《サボテン》の間に籐椅子がいくつかあり、その一つの上に外国新聞がおきっぱなしになっている。人がいた様子だけあって、そこいらはしんとしている。
大階段の大理石の手すりにもたれて下をのぞいたら、表玄関が閉っていてほこらのように薄暗かった。ぼんやりその裏から白と黒との大理石モザイックが見える。
思いがけない直ぐうしろでかなり乱暴に戸が開いた。派手な紅どんすで張った室内の壁や、椅子や、天井の金色枠が、人の出て来る拍子に見えた。ここにも寝台がいくつか入れられている。その人は、うつむいて気ぜわしそうに眼鏡をかけ直しながら食堂の方へ去った。
防寒のために荒羅紗を入れ、黒い油布を張った上から鋲をうちつけた、あたりまえのロシアの戸だ。そこが「学者の家」の常用口だ。一番下に「風呂」という札が出ている。風呂はどこになるのか誰のためにその札が出してあるのか分らない。(住んでる者は毎朝風呂の横で顔を洗っているのだから。)
中庭がある。木煉瓦が一面敷つめてある。中庭の中央に物置小屋みたいなものがあり、横のあき地に赤錆のついた古金網、ねじ曲った鉄棒、寝台の部分品のこわれなどがウンと積まれている。
半地下室の窓が二つ、その古金物の堆積に向って開いている。女がならんで洗濯している。
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