が急ぎ足で旧参謀本部、今のレーニングラード・ソヴェト行政部わきのアーチへ向って歩いて行く。そっち、十月二十五日通りから入って来て、斜に広場をネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河の岸へ横切って行く者がある。ひどい速力で印刷用紙を積んだトラックが行政部の前を疾走して来て右手の公園の方角へ消えた。
 人通りが半分ほど途絶える。
 辻馬車が、国営衣服裁縫所製のココア色レイン・コートを幾枚も束にして膝へ抱え込んでいる若者をのせてやって来た。まいたように人の姿が黒く広場の反対のはずれに現れ、いそがしそうに各方面に散らばった。広場の上ではひとりでに大きい星形を描いて通行人が通っている。
 若い赤衛兵が一人銃をもって、冬宮の車寄のところへ立番しながら気持よさそうに、そういう広場の朝の景色を眺めている。
 一九〇五年の一月ガーポン僧正は大仕掛な民衆売渡しページェントをこの広場でやったのだ。ペトログラードの民衆はガーポン僧正を先に聖旗をなびかせ、「父なる皇帝よ」を唱いながら皇帝へ哀訴にやって来た。群衆の中には無数の女子供があった。彼らがひざまずいて祈りはじめ哀号しはじめると、皇帝ニコライは慈愛深い父たる挨拶として無警告の一斉射撃を命じた。灰色の官給長外套を着たプロレタリアートの子が命令の意味を理解せず山羊皮外套を着たプロレタリアートの子を射った。「血の日曜日」である。
 血は無駄に冬宮前の雪に浸みこんだのではなかった。「十月」が来た。
 すべての権力をソヴェトへ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 餓えた農民と労働者は不決断な臨時政府がついにブルジョアの手先で彼らのものでないことを理解し、兵士は塹壕から、フロックコートを着てやって来る社会民主主義の煽動者をぼいこくった。ケレンスキーが、星条旗のひるがえるアメリカ大使館用自動車――四つのタイヤに支えられた数平方メートル内の治外法権を利用してガッチナへ遁走した。二十五日の夜中、三十五発の砲弾がこの広場の上を飛び、一七六八年このかた、初めて冬宮の「黄金の広間」「アレクサンドロフスカヤ広間」の床が、プロレタリアート群の重い靴の下で鳴った。
 冬宮を占領したボルシェヴィキーは、密集した列をつくって壮麗な広間へと通り抜けた。歴史的瞬間であった。誰かが手をのばして広間に飾ってある置時計を盗んだ。すぐ続いて次の手、次の手、たちまち熱く叫ぶ声が前方からおちて来た。
 ――タワーリシチ! 何にもさわるな! 取るな! みんな民衆の財産だ!
 広間から広間へ進むにつれ叫びはあっちこっちから絶えず聞えた。
 ――革命の規律! 革命の規律を守れ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 ――タワーリシチ! 俺たちプロレタリアート・ボルシェヴィキーが盗人でも乞食でもないことを見せてやれ!
 赤布を平服の腕へ巻つけた労働者赤衛兵はピストルを片手に、冬宮を引揚げる時全同志の身体検査をした。ポケットに入れられたものはどんな小さいものもとり上げそれを記入した。(中にはマッチの箱、ローソクの燃えかけという記念品[#「記念品」に傍点]もあった。)そべてそれらは、プロレタリア革命の名誉のためになされたのである。
 赤衛兵は、日にやけた屈托のない若い顔で、広場を眺め立っている。冬宮は今博物館となっている。
 日本女はゆっくりその広場を横切り、十月二十五日通りへ出た。家並の揃った、展望のきく間色の明るい街を、電車は額に照明鏡を立てたドクトルみたいなかっこうで走っている。
 年経た、幹の太い楡の木がある。その濃い枝の下に、新聞雑誌の売店《キオスク》、赤い果物汁飲料《クワス》のガラス瓶。
 古いくり形飾を窓枠につけたロシア風な小家。それを曲って、わきの空地に馬糞がある。蠅がとんでいる。――町はずれである。
 二人の日本女は、右手に見える白い大|拱門《アーチ》を入って行った。非常な興味を顔に現わして、正面に見える建物の破風や、手前にある夏草のたけ高く茂った庭へ置いてある緑色ベンチなどを見ながら、通って行った。
 日本女は、一九一七年十月の夜、ここからどんな勢が、旧ペトログラード市中央に向って流れ出したかを知っている。スモーリヌイはもと、華族女学校だった。ケレンスキーがそれを全露労働者兵卒ソヴェト中央執行委員会に貸した。二十五日の夜、徹宵この敷石道の上をオートバイが疾走し篝火《かがりび》がたかれ、正面階段の柱の間には装弾した機関銃が赤きコサック兵に守られて砲口を拱門《アーチ》へ向けていた。軍事革命委員会の本部だったのである。
 今スモーリヌイには、レーニングラード・ソヴェト中央委員会、中央執行委員会がある。太い柱列《コラム》のガラス戸はしずかに六月はじめの日光をてりかえし、白い巨大な建物全体が青空から浮き出ている。
 日本女は前後して石段をのぼって行っ
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