ジイドとそのソヴェト旅行記
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)明《あきらか》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)独立|不羈《ふき》を護ろうとする、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)自分の真理[#「自分の真理」に傍点]を主張した。
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『中央公論』の新年号に、アンドレ・ジイドのソヴェト旅行記(小松清氏訳)がのっている。未完結のものであるが、あの一文に注目をひかれ、読後、様々の感想を覚えた読者は恐らく私一人にとどまらなかったであろうと思う。
 間もなく、去る一月六日から四日間、『報知新聞』の学芸欄に「ジイドの笑いと涙」という題で、『プラウダ』が社説として発表したジイドのソヴェト旅行記批判が、山村房次氏によって訳載された。
 その文章は何月何日の『プラウダ』に出たものであったのか、執筆者の署名があったのか無かったのか、完訳であるのか抄訳であるのかそれ等の点については、説明されていない。
 ジイドの旅行記と『プラウダ』の批評とは、その性質上、対立的なものとして我々の前に現れているのである。今日の如き世界事情の裡に生きる一人の日本の作家としてジイドの旅行記を読むと、ジイドが自身の作家的特質倒れになって、結局新社会の存在が語っている歴史的現実を客観的につかんでいないことが感じられる。『プラウダ』の批評は、対立の益々激化している世界の情勢並にトロツキイズムとの闘争の必要の上に立って、政治的な新聞の立場から執筆されている。私たちは更に時代的・性格的ポーズのつよい作家ジイドの諸矛盾の内から独自性にふれて分析し、批評の本質の真理を理解しようとする要求を禁じ得ない。

 アンドレ・ジイドは一九三六年六月、彼より一つ年上の輝しい僚友マクシム・ゴーリキイの病篤しという報に驚いて、飛行機でU・R・S・Sへ赴いた。ジイドが到着した翌日ゴーリキイの生涯は終った。ジイドは、赤い広場で行われたゴーリキイの感動的な葬儀に参加し、衷心からソヴェトの大衆に向って新世界に対する自己の傾倒を語り、それから約二ヵ月ソ連邦のあちらこちらを旅行した。「鋼鉄はいかに鍛えられたか」の著者、オストロフスキーをもわざわざ南露に訪ね、自分の生命の最後の一滴をも人類の発展のために注ぎつくそうとしているこの若く熱烈な不具の新人間の高貴な額に、尊敬と愛着との涙をもって接吻した。
 特にフランスへ帰ろうとしていたセバストーポリの宿で、ジイドは、彼の親愛な若い友人ウージェヌ・ダビを、猩紅熱で失った。時間としては短い二ヵ月余のソヴェト初旅行は、それ故終始、敏感なジイドにとって或る悲痛な感情の緊張をともなった印象の裡にまとめられたものであると云えよう。彼らしく、「狭き門」の作者らしく、ジイドは、ゴーリキイやダビや、オストロフスキー、その他新社会の建設の中に生命を捧げた人々への無限の愛を表すために、自身のソヴェト旅行記をますます「いつもよしとして称讚したいものにたいして、最も厳格である」という自分の精神に従って「何らの表裏も手加減もなく真情を傾けてソヴェトを語り」そのことによってソヴェトにより多く貢献し、更に「ソヴェトよりもっと重大な」人類の運命と文化とのために貢献しようと決心したように見えるのである。
 序言で、ジイドはギリシアの神話までを引用して、姑息な愛の恐るべき害悪を語っている。これまでソヴェトを旅行したものが、多くの場合それぞれの既成の見解に動かされて、ソヴェトの真相を憎悪の念をもっていうか、愛情をもって虚偽を伝えるかする傾向が強かった。ジイドは、自分の立場を確然とこれらの一群と対置しようとした。ソヴェトの偉業にたいする讚歎の情があればこそ、ソヴェトが彼に希望することを許したものがあればこそ強まる彼の批評精神によって「ソヴェトによって実現された事業は十中の八九まで実に称讚に価する」のであるが、のこる十分の一に示されていると彼が感じた「重大な誤謬」について率直に語ろうとしている。ジイドが「指摘する重大な誤謬にたいして、ソヴェトはきっと打克つであろう」という確信、「ある国の特殊な誤謬は決して国際的な普遍的な、主義の真理を傷つけるものではない」という人間の明智に対する信念によって――ジイドは、また、彼の論敵ら「秩序の愛と暴君の趣味とを混同する」徒輩が、この紀行文から手前勝手な利益を引っぱり出すであろうことをも、はっきりと予見している。しかも彼が敢てこの紀行文を公表するのは、上述のような人類的な確信と共に、虚偽に固執することは却って敵の攻撃に絶好の機会を与えるものであるという現実生活における経験及び「真理は、たとえ痛々しいものであっても、癒すためにしか傷つけないものである」という、誠実への献身に励まされての上のことだという説明が加えられているのである。
『中央公論』の新年号に訳載されているのは、紀行の第三節までである。あと、どの位つづいているものであろうか。とにかく、第一節において、ジイドは、心を傾けてソヴェトに開花している日常生活の幸福そうな明るさ、行き届いた文化的施設、どこの国においてよりも深く強くヒューマニティーを感じさせる人間と人間との接触、共感、民衆が享有している非常に長い青年期の高い価値と美とを称讚し、描写している。
 ジイドが、長い前置と著しい精神の緊張とをもって輝やかしいソヴェトに見のがすべからざる誤謬と観察したのは、主として、社会生活に現れている「異常な画一」「非個性化」民衆はそこに偽善があろうなどとは夢にも思わない程それに馴らされている「画一主義」「プラウダ紙によって彼等が知り、考え、信じるにふさわしいことを教えられ」たままでいるために生じていると観察された幸福の可能性についてである。ジイドは、ソヴェトの民衆が世界のどこの国の民衆より幸福なのは、比較というものを奪って、幸福だと信じこませられているからである、と観た。彼等の幸福は、希望と信頼と無智とによってつくられている。批評精神は殆ど完全に喪失している。かかる精神状態は、文化を危険に導くものであると、ジイドは自身の結論の上に身構えて声を大にしているのである。
『プラウダ』の社説という文章は、ジイドのこういう観察と結論とを、簡明に且つ猛烈に評している。九月初めにはソヴェト同盟にたいする無条件の歓喜に浸っていた彼が、十月には既に中傷している。使徒パウロからユダヤ人サウルへの拙劣な転身をした。驚くほど破廉恥な諸矛盾をその本の中にさらけ出している。党及び政府の一般的な方針に反対する批判の権利だけを認めているジイドは、ソヴェト内でトロツキイストたちの大ぴらな声をきくことが出来ないのを悲しんでいるのか。頽廃的なブルジョア・インテリゲンツィアの典型的代表者であり、うぬぼれのつよい個人主義者であるジイドのブルジョア的良心がどうしても和解することが出来ない多くのものがソヴェトには在り、ジイドの怒りは反動的なブルジョアジーの無力な敵意を反映しているものである、云々と。
 事実、ジイドのこのソヴェト紀行は世界のファシストの陣営から拍手をもって迎えられた。ファシストの新聞は彼を仲間と呼んで歓迎している。フランスの週刊雑誌『カンジット』はジイドをトロツキイストと呼んでいるということも肯ける。そして、これらのことはジイドがその前書の中で予見していたよりも深甚な反動としての影響を今日の人類の運命と文化の発達の上に明《あきらか》にマイナスなものとして、与えないとは決して云えない。ジイドとして、その結果については思うように思わしめよ、と云うには、余りに錯雑し、重圧のつよい世界の現状の裡に、彼もひとも生きているのである。
 だが、『プラウダ』の批評のような表現でジイドが示した影響の政治的性質だけをとりあげられても、従来ジイドの人間的良心というものをそれなりに見て来た一部の人は、具体的な矛盾の本質までは闡明されず、納得しかねるのではあるまいか。
 ジイドは、パウロからサウルへ転身しようと意企していたであろうか。もしまた、意図せざる結果として、客観的には人類の進歩性を後へひっぱる権力に利益を与えることになったのならば、それは如何なる意識下の力――作家ジイドが好んで潜入し、格闘するところの無意識の力に作用されてであるのか。それらのあらましが究明されなければなるまいと思うのである。
 アンドレ・ジイドはゴーリキイの誕生におくれること一歳、ロマン・ロオランより三つの年下として一八六九年、パリに生れた。両親は富裕な清教徒であった。十一歳で父に死別した後、病弱な神経質体質の少年であるジイドは、凡ての悪行為、悪思考と呼ばれているものに近づくまいとして戦々兢々として暮す三人の女(母をこめて)にとりまかれ、芝居は棧敷でなければ観てはいけません、旅行は一等でなければしてはいけませんという境涯に生長した。
 少年の間、彼は全くそういう窒息的な環境に馴らされ、些《いささか》の反撥も苦悩もなく過し、十六歳の年まで読書さえ母の監視つきであった。性的にも内気で無垢であり、従妹のエマニュエル只一人が愛情の対象であった。「一切金銭の心配からはなれ」息子の処女出版のために特別費を心がけている母の愛顧の下で、二十歳の彼は処女作「アンドレ・ワルテルの手記」を書いたのであった。
 ジイドは、この「アンドレ・ワルテル」の中に、青年のうちに荒れ狂う肉的なものに対する戦いを表現しようとした。青年ジイドは自身の裡に目覚める野獣的な慾望の力と揉み合いつつ、これまで自身が身につけていたと思う教育の威力や倫理や教義の無力を痛感した。彼はその責苦を手記の中に披瀝して、恐らく彼と同じ苦痛と疑惑に陥っているであろう「人々の役に立つよう、現して見よう」と思ったのであった。しかし、この作品は、当時まだジイドが宗教や家庭の日常習慣に抑制されていたのと、当時の象徴派の文学的傾向に従っていたので、文体も綺麗ごとに終り、苦しむ青年の魂をひきよせるかわりに、メエテルリンクから「悲しい不思議な、乙女達の愛読書」と評されたようなものが出来上った。
 一八九〇年代のフランス文学の潮流は、一方に象徴派が隠遁超脱の城に立てこもり、一方には自然主義者たちが、象徴派の人々の神経病を嗤っているという時代であった。アンドレ・ジイドは「ワルテルの手記」によって後者の庶民的生活力には結びつかず、象徴派のマラルメやアンリ・ド・レニエなどと相識り、爾後四五年間はその温室の中にあって、間接に『法螺貝』、『半人獣』などという雑誌編輯に当り、グループの「最も光彩陸離たる聖職者の一人」となった。
 当時のジイドの風貌は黒羅紗の大きな帽子をかぶり、痩せて清らかで、同時に重々しく気取り、オスカア・ワイルドが「僕は君の唇が気に入らないんだ。一度も嘘をついたことのない奴の唇みたいに真直じゃないか」と笑いこけた、その唇から特異な言葉をぽつぽつと語る新進芸術家として描かれている。
 閉じこめられたまま清純のまま続いていたジイドの青春は、二十四歳の時、突然その清教徒的規律を破った。彼は在来の周囲に激しい厭悪を感じて友人のロオランとチュニスに旅立った。この船出は、地理上の旅行であるばかりでなく、フランス中産階級の生活の中でも特別な生い立ちをもったジイドにとっては全く幼年時代からの訣別であった。アフリカという未知の地方への出発は、ジイドにとってはとりも直さず未知な生活、未知な自己の個性、未だ跋渉されていない自身の欲望の発見と征服の旅立ちであり、彼はこのとき、初めて、幼年以来身のまわりについていた聖書から自分を引離したのであった。
 彼に「地の糧」を書かしめたアルジェリイにおける生産力の横溢と転身の自覚。彼に「パリュウド」をかかしめた、パリ帰来後の孤愁と象徴派との別離。結婚生活の重荷が反映している「背徳者」、それから六年間も間をとんで執筆された「狭き門」、三十歳のジイドの苦悩は、日夜自分の極めて知識人風な内的生活の探求の裡に棲んで、「汝は何ものかに役立たんと欲している」。だが、自分が
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