役立ちたいのは何もののためであるか、それがはっきり掴めない焦燥と不安とであった。
作家としてのジイドを三十年間押し動かして来たものは、当時そうであったように現在も只管《ひたすら》に真実ならんと欲する情熱である。彼が自身の存在全体に求めるのは、純粋の誠実さである。彼は主観の裡に燃えるこの情熱によって、フランス中産階級の生活に瀰漫《びまん》している因習と闘い、自分が自分である権利を主張して来た。習慣と惰力とが引っぱって来ているしきたり、俗的真理に対置するものとして自分の真理[#「自分の真理」に傍点]を主張した。真実の自分とは違う自分の肖像が押しつけられそうになると、ジイドは、たといその偽の肖像の方が世間的に有利で通りがよかろうとも、自分から自分を曝露して、自己に真実であろうとした。無気力な安逸を絶対にきらう「狭き門」のアリサの熱情はその不安と定着との拒絶と自ら帰結を知らない点でも、実にジイド自身のものであると云える。「神がいないのだったら何をしたってかまわない」そういう神の否定ではない。自分の、各個人の本性から尽きず湧き上る要求、モラルがある。因習に強制されない自分の個性そのものが既に他愛的な傾向をもつ。個性の輝かしい拡大としての人間への献身。一九一四年、大戦がヨーロッパの思想的支柱をゆり動かしはじめた時、ポール・クロオデルは飽きることのない執拗さで、清教徒であることをやめたジイドをカソリックへ引っぱり込もうとした。「法王庁の抜穴」を書き終ったところであったジイドは、この宗教的格闘では目覚ましい粘着力を示した。坊主とクロオデルとが彼を妥協へ脅迫する原因となっている自身の性的経験を自ら公然と語ることによって、彼等を沈黙させた。「コリドン」と「一粒の麦若し死なずば」とは、このような歴史を負うている。彼自身が後年自分の前に空間と自己自らの熱意の投影しか見なかったと告白していることは、よく彼の作家的現実を説明している。ジイドは、作品そのものよりむしろその作品に至るまでの彼の内的過程が注目と興味とを牽く特別な作家の一人なのである。
一九一二年頃から、陪審員としてルアンの重罪裁判に列席するようになり、ジイドの人間の行動、心理の推移に対する関心は、次第に自分の内部省察から、そとの人々の方に向けられて来た。一九二五年のコンゴへの旅行は、資本主義国における植民地経営の裏面の罪悪をジイドの面前にひろげて見せた。ジイドは、この時ゴム栽培特許権所有者組合の横暴と一年間闘い、商務大臣の偽の誓約に憤った。「人間こそ先ず建直されねばならぬ」だがそれはどんな道によってであろうか。ジイドの考えによれば「人の最も個性的な状態にいることは、なによりも優れた公益をはかっていることになるのだ」が、資本主義ヨーロッパの社会的現実は、果して、人間を個性的に、真の自分たらしめ得ているであろうか。ジイドが目撃する古い社会には「甲殼類」が充満している。彼等は、ジイドが死よりも嫌う同化主義者、保守主義者、生涯に只の一遍も人間の為に献身しようとしなかったために傷つきもしなかった、無疵のままの利己主義者である。社会の枠がこのままであって、猶且つ人間が建直されるということはあり得るであろうか。極めて自然なこの疑問が遂にジイドの目をソヴェト同盟へ向かわしめた。彼の主観的な知的、感覚的探求心を誘いよせた。そして、六十三歳のジイドはそこに「個々の人間の自由な発展こそ、すべての人間の自由な発達の欠くべからざる条件である」ことを理解し、実現せんとしている新社会を発見したのであった。
ここで、私たちはもう一度改めてはっきりと、ジイドがソヴェト同盟の建設に牽きつけられるにいたった、特殊な主観とその内的構造を弁別しなければならない。何故なら、ジイドにあっては、ソヴェト同盟への傾倒が、その紀行の中でも一寸ふれているように、社会問題の面から結果したのではなく、その当初から全く内的な、心理的な問題として惹起されたのであったから。ジイドがU・R・S・Sに結びついたのは政治家としてでもなく、社会運動家としてでもなく、勤労者生活による利害の教訓からでもなかった。そのことについては彼自身率直に表明している。「……さらに私は自己の無識を感じており、そして日に増し強く感じている。政治、経済、財政上の諸問題は、私が敢て足を踏みいれることに危惧の念を抱かざるを得ぬ分野に属する」これは、ジイドにとって、コンゴー当時からの態度である。一九三五年パリで行われた「文化擁護国際作家会議」でも、ジイドは作家としての「自分の中に持っているもので、自分には最も純正で、最も価値あり、最も健全であると思われるものが、すべて周囲の因習、習慣、虚偽と忽ち、そして直接に矛盾衝突した」、「思うに我々が今なお住んでいるこの資本主義社会では、凡そ価値ある文学というものはこの社会に対立する文学以外のものであるとは考えられない」と云っているのであるが、作家としての彼が一度、この内なる自己と外部との葛藤、相剋をとりあげるとなると、それは全く社会的背景から抽象された心理分析、フロイド風の或はドストイェフスキイ風の意識下のものの探求となり、作品に現れる人物が本質の窮極においては彼の内的所産であることは「狭き門」の頃とかわりない。ジイドは、人間は何を為し得るかをつきとめようとして日常の平安を拒絶する人間精神の冒険者として、人間の個性を本性におくばかりでなく、より高く高くと自己から脱せしめる力として、一九三一年のU・R・S・Sを見た。目的を達したならば更にそこを超えてゆくことを個性のモラルとし、自身の行動の原則としている彼の主観において、ソヴェトの社会が「なすべきことと、したいこととが一致している」ところであると見た。飽くことない探求者、個人主義者のアンドレ・ジイドは、人間を求めて集団生活にたどりついた。「正しく理解された個人主義は当然社会に役立つべきものだ。個人主義をコムミニスムに対立させるのは間違いである」と思うジイド独特の歩きつきで「U・R・S・Sに対する私の同情を声高く語」ったのであった。
作家ジイドの生涯を貫く最も著しい特質、純粋な誠実[#「純粋な誠実」に傍点]を自他に求める情熱への自覚的献身の欲求が、今度のソヴェト旅行では、かえってジイドの現実的理解を制約する力となっていることは、実に意義深い我々への教訓であると思う。旧世界の文化の裡にあって彼を宗教や家庭の因習に立ち向わせ、腐敗から彼の個性を清潔に保たせて来た力は、疑いもなく彼の主観の中に燃えるこの不安な程の純粋誠実[#「純粋誠実」に傍点]への情熱であった。この知的な武器の力を、ジイドは明らかに波瀾の多い生活からの獲物として自ら知っていた。ところが、一方に告白されているような政治的、経済的無識が彼の現実を見る目を支配しているのであるから、ジイドは基本的なところで先ず自己撞着に陥り、観念の中で、心象の中で、把握している新社会の存在が、その本質に於て、違った土台の上に建っている経済的・政治的・文化的現実であることが、具体的にわからなかったように見える。ジイドは、自分がコンゴーを観た観かた、どこでも、何にも目を奪われず、常に絶対に誠実であろうとする自己の主観的な常套にのみ固執し、それに意識を奪われて大局を見誤っている。彼の理解に従っての精神の独立|不羈《ふき》を護ろうとする、その態度を示す自己目的のために急であって、彼が他の場所でははっきり認めているかのようであった、現代の社会・文化対立の関係の中でソヴェトの現実的特質を評価してはいないのである。
ジイド自身にもしこれらの諸点が分っていたらU・R・S・Sの民衆の持っている幸福の可能の現実的根拠、社会生産関係の上での歴然たるよりどころを見のがしはしなかったであろう。ロシアの民衆が過去にもっていた歴史的な桎梏の性質と、今日の事情との間に十九年の歳月が与えた飛躍の実質を看取したであろう。旧社会で、卑俗な日常の幸福の可能が、多く無知と無気力と批判力の喪失にかかっていることを洞察し、それに抗したかぎりジイドは健全であった。しかし、純粋な誠実[#「純粋な誠実」に傍点]へのポーズに負けて、旧社会におけると同じ角度で、同じ性質の矢を放ったとしても、それはソヴェトの現実の的を射ることは出来ない。ソヴェトへの旅行において、ジイドは遂に客観的にソヴェトを語ることが出来ず、従来小説の人物をも理念でこしらえていたように、何かこしらえものを語っている。旅行記の中で、遺憾ながらジイドは昔ながらに自分の前に自己の熱意の投影のみを見ているのである。「何ものかを目指しながら進んでいる」と自身思い、その内容として「個人にその元来の豊富性を回復させ」「今日、文学、文化、文明を発展させ、開花させることの出来る」文化建設のための闘争への自身の生命を結合させていると信じながら、ジイドは、実際に当っては、一般抽象性の中でだけ文化の自由を擁護している。ジイドは自分の論敵が「秩序の愛と暴君の趣味を混同する」者共であることは自覚している。そやつ等に対して誠実、真実を語らんとする自分に、自尊心などということは問題にならぬと「一粒の麦もし死なずば」時代のような勇気を示しているのだが、今日の社会事情の中でジイドのその勇気は、真の勇気たる本質を失っている。彼の論敵たる勢力が「民衆を隷従、蒙昧、無智の状態に引止めて置こうとしている」現代の「非真実」な社会現象との闘いが、今日すべての人間らしき人間の関心事である。それに対して、彼が最も理想とする完全な個人主義の花盛りにまでは、人類として、歴史的にまだ多くの忍耐と時間とを要するとしても、既にその可能は見とおされている新社会の民衆の個性の発展の本質的意味を、明瞭に描き出し、横行している強権に対立するものとして示すことが出来なかったのは、ジイドの所謂《いわゆる》進歩性の本質を疑わしめる。新しい社会の建設過程は多岐、困難であるから、ジイドの観察が嘘ばかりだとは思えない。特に、民衆の個性、自発性の涵養の問題は常にソヴェトにおける文化問題の究明に際して最前面に出されているのであるから。彼は、それらの現象の本質の把握において誤ったことで遂に全体さえも誤ってしまった。
更に、ジイドの混乱の心理的原因として、旅行記の中にうかがえる微妙な数行がある。それは不思議とも思われる一つの事実であるが、どういう訳かジイドは、その便利な文化的位置にもかかわらず、一九三五年以来の新方針というものを、何か、あるとおりに理解していないらしい。一九二一年の新経済政策当時に、観念的な革命作家たちが陥った混迷に似たようなものに捕えられているのではないかと思われる。これはどういう理由からなのであろう。旅行記の中には説明されていない。只そうらしく推察される暗示的な数行があり、その数行は、ジイドがフランスを出発する以前から、その主観の中で、建設の指導者たちと民衆とを切りはなしたものとして感じていたことをほのめかしているのである。ここにも、ジイドが新社会の批評に当って心理的に拍車をかけられた内奥の秘密が横《よこた》わっているのではなかろうか。
ジイドは、新しい社会が克服すべきものを指摘した過程において、一層あからさまに自己の克服すべきものを示した。彼の旅行記に対する『プラウダ』の批評やその他の批評を、ジイドは、どう摂取するであろうか。これは自分の真実[#「自分の真実」に傍点]であると固執することによって「自分というものが自分が自由に動いたかどうかを了解し得る唯一のものであり、自分の責任を評価し得る唯一のものである」という個人の中に戻り、再び自分の前に空間のみを見ることは、ジイドの欲しないところであろう。ジイドは芸術家としての晩年において、一層自分という個性をより高からしめる実際の課題に逢着しているのである。[#地付き]〔一九三七年二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本
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