家出をした。僧院に向う途中、トルストイはアスタポヴォという寒村の小駅で、急に肺炎をおこして亡くなったのであった。
レフ・トルストイは、全生涯を賭して解決し得なかった諸矛盾のまことに正直な、潔白な負い手として傷つきながら、「自分にとったより遙かに多くのものを」ソフィヤ夫人と八人の子供達とにのこして、死んだのである。
レフ・トルストイの生涯の終った一九一〇年と云えば、四年後にはヨーロッパ大戦が起っている。続いてその三年目は、逝けるレフ・トルストイが目醒めないながらも熾烈に働く人間精神の欲求によってさぐり求めていた万民の幸福への、至難多岐な第一歩がロシア全土に於て踏み出された年である。
父を理解しない当時の国家の権力までをつかって、財産を己れらの手許にとりとどめた息子らは、歴史の更に大きい浪によって或る者はそれを失ったであろうし、或るものはその財力のおかげでフランスへ亡命し、やがてそのような亡命者として父トルストイの余恵をさがしつつ、真には父の求めていた人間的なものの発展の姿も理解し得ず、市民的な精神のよりどころ迄を失って、一人のジャン・トルストイにこの手記を書かせるに至っている。
ソフィヤ夫人が、巨人レフ・トルストイの思想と行為とを世俗の面へまで陥落させようとした時には常用の武器とされた子供たち。やがて、髭の剃りあとも青く母の側に立って「気狂い親爺」と父を罵り、子の権利[#「子の権利」に傍点]を主張した息子たち。それらの息子等の生活態度に反対しつつ、抽象的に人格の自由を重んじ無抵抗ならんとした心持が一つの矛盾となって、現実的な形での対立は固持し得なかった一家の父としてのレフ・トルストイの難破した姿。
思想的にはこれと意味がちがい、もっと弱い調子と日本らしい細部の表現とにおいてではあるが、芸術家としての夏目漱石とその家族の姿が思い出されるようである。
フランスは周知のとおり、昨今思想的にも実践的にも民衆の進歩的な意志が益々結合せられ、活溌に向っている。そのような社会事情にかこまれながら、孤児院出のジャンが、この如き経験をなめていることにも、私たちの心は様々に動かされる。
華やかで遊惰な雰囲気のニースでバルコンある別荘《ヴィラ》に住み、恐らくはロシアからかくしてもって逃げて来た金袋を減らしながら、思い出がたりで暮していたであろうお祖母さんオリガの、嘗てあった生活[#「嘗てあった生活」に傍点]の幻を注ぎこまれて、中途半端な育ちかたをしたことは、ジャンにとって親を失ったより大きい客観的な不運である。地べたいじりがいやでたまらぬジャンの気持。農民の武骨な感情表現になれることの出来ないジャンの都会気質と或は決してなくはないかもしれぬ自分の出生にこだわった心持。これらのこともジャンの持つ負け札として見のがせない。
ただ、ジャンが機械工になりたくて仕方がなく、その方面では技術をさずけられ自信ももっているのに、教化所が一つの慣例のように農家へばかり委托する為に、ジャンの生活が破綻してゆく点を、私は心から哀れに思う。
アブデェンコの小説「私は愛す」を読んだ読者は記憶していられるだろう。国内の混乱時代に両親を失い、浮浪児となった主人公の少年サニカが、労働教育所の共同生活の訓練の間で、どのように人間としての愛を知り、技術を身につけて伸びて行くかという過程が、全巻を圧する簡明な美しさで描かれていた。そこには、ジャンの祖父、レフ・トルストイがぬけ出ることの出来なかった迷路にふみ入りながら執拗に求めていた人間性の明るさ、単純さ、健全な目的、希望等が、新たな社会的背景を前に溌剌と浮び出しているのである。心から、ジャンがそこにいたのであったらば、と思う。ジャンはこの手記を書かず、別種の思い出を書いただろうと思う。
私たちは、ジャンがこの手記を機会として機械工になりたいと云う自身の少年らしい希望を一日も速く達するような条件を勇ましく掴んでゆくことを願う。
そして、彼が分別らしく又気弱く、自分たちのような不幸な少年は他の世界への憧れや冒険心などをすてる方がよいのだなどと云っている消極性をふりすてることを希う。自身の告白を、故国への誤った悪評の材料につかわれるような恥さらしをせずに、生き抜いて欲しいと思うのである。
この「ジャンの手記」が私たちに与える教訓は決して感傷的な系図しらべにもないし、所謂浮世の転変への愁嘆にもない。妻としての良人への愛情。母としての愛情。又は所謂《いわゆる》家庭を守る、ということの真の意義、真に聰明な洞察は果してどういうところにあるのであろうかということについての、真面目な省察を促がされるところにあると思う。世俗的なかためかたでは、現実の推移がもたらす主観的な幸、不幸はふせげない。終極における愛とは、妻の愛にしろ、母の愛
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