ジャンの物語
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生《き》のままの

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(例)息子の権利[#「息子の権利」に傍点]の
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 フランスの『マリアンヌ』という新聞に、ロシアの大文豪であったレフ・トルストイの孫息子にあたるジャンという少年が、浮浪児として少年感化院に入れられ、そこから脱走して再び警察の手にとらわれたときかいた「ジャンの手記」というものを発表した。
 トルストイには何人かの息子がいたが、父親が人間の歴史にのこした強大な足跡をうけてそれを発展させてゆくような人は一人も出なかった。ジャンの父であるひとも、その息子たちのうちの不仕合わせな一人であるらしい。
 有名なひとの孫がパリでそのような生活に陥っているということに対して、私たちの心が動かされるとしたら、それは俗っぽく名家二代なしの証拠をそこに見るためではないと思う。トルストイという極めて強烈な生命力を発散させて生涯を終った一つの人間性が周囲に投げた波紋や、それから後急激に移り進んだロシアの歴史の変遷、それに対する貴族としてのトルストイ家の人々の動きかた、あらゆる複雑な世紀と人生の波濤をそこに感じるからであろうと思う。
 今日私たちのところには「チボー家の人々」が訳されており、その主人公のジャックの一時期の境遇を描いた「灰色の手帖」「少年園」は一般につよい感銘を与えている。マリイ・オゥドゥウの「孤児マリイ」は何とまざまざと女の子のための孤児院の生活感情を語っているだろう。「格子なき牢獄」という映画にはリュシェールという若い女優の美しさばかりでなく私たちの心をうつものがあった。そして、それよりもっと生《き》のままの身近い現実として、今日の私たちの周囲には少年犯罪の増加の事実が世人の注意をひいているのである。

 この、ジャン少年の手記は、トルストイの文学に親しみぶかい日本の多くの人々の心に、少なからず刺戟を与えるだろうと思う。特につい先達って築地の小劇場で新協が演じたアンナ・カレーニナを観た女のひとたちの心に。アンナがカレーニンと離婚することが出来なかった原因はいくつかあるが、その一つは、うたがいもなく可愛い息子セリョージャを全くカレーニンにうばわれてしまう苦痛に堪えないからであると描かれていた。トルストイが「アンナ・カレーニナ」を書いたのは四十九歳のときであった。トルストイが没したのは一九一〇年であったから、今日まで二十七年の歳月が流れた。この二十七年の日月は人類の歴史上かつてなかった大波瀾を内容としていて、彼の見ざる孫の一人ジャンのこの手記が、計らず今日私たちに一種の感動をもって三代のトルストイの生活の上にあらわれた推移を考えなおさせるのである。
 ジャンは、この文章の中に父の名を書いていない。ただ、亡命ロシア人、作家としてパリに生活しているそうだとだけ云っている。父の名を全く知らないのだろうか。或はいやな心持からわざと書かないのか。それは私たちに分らない。母の名も同様である。
 レフ・トルストイには八人の男の子と三人の娘とがあった。そのうち四男、七男、八男の三人は夭折した。残った五人の息子たちのうちの誰が、ジャンの父であったのだろう。ジャンを十三まで育てて亡くなったお祖母さん、唯一の肉親の思い出として語られているオリガ・ソルスキーという老婦人の身元もよくわからない。大方、激しい夫婦喧嘩の末離婚したという母のおっ母さんに当るひとででもあったのだろうと思われる。祖父トルストイの妻はソフィヤ・アンドレーエウナと云って、宮廷医ベルスの娘であったのだから。
 レフ・トルストイが、ヤスナヤ・ポリャーナの村荘にロシア名門の伯爵の長男として生れたのは一八二八年のことであった。トルストイも八歳で孤児になった。非常に人物の傑《すぐ》れた叔母に育てられ、その没後数年は当時のロシアの富裕で大胆で複雑な内的・社会的要素の混乱の中におかれている青年貴族、士官につきものの公然の放縦生活を送った。
 三十四歳になったとき、既に「幼年時代」「地主の朝」「コサック」「少年時代」「セバストーポリ」「三つの死」「結婚の幸福」の作者であったトルストイは、三年の間心に思いつづけて求婚する決心のつかなかったソフィヤと遂に結婚した。ソフィヤはその時十八歳であった。二年前、兄の死にあったこととヨーロッパ見学旅行をした結果、きびしく従来自分がやって来た貴族生活に批判を抱きはじめていたレフ・トルストイは、自身をソフィヤの若々しい純潔にふさわしからぬ者として、なかなか結婚の決心がつきかねた。「アンナ・カレーニナ」の中にあるレウィンとキティーとの插話は、当時のトルストイの感情を語るものと見られている。
 一八六三年一月の日記に、結
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