婚して四ヵ月目の良人であるトルストイは率直に書いた。「家庭的幸福が私をのみこんでいる」と。だが三月一日には「全く彼女に価するであろうところの人間に対する嫉妬……。が、理解と感情との最少のきらめきがあれば、私は再び全く幸福である。そして、彼女が物事を私と同じように理解していることを信ずる」と、極めて微妙な形と物柔かさとに於てであるけれども、トルストイを最後の悲劇に導いた夫婦の間の生きる目的の分裂が仄見えはじめているのである。
翌年の冬、息子が生れた。トルストイはこの頃から「戦争と平和」に着手した。完成に四年かかった。つづいて「アンナ・カレーニナ」を書き、次第に彼の宗教的転換がはじまった。民話をかきはじめ、当時のロシアのギリシャ教の神学への批判をかき、「我が懺悔」「我が宗教」「我等何をなすべきか」等を著し、好きな狩猟をも、楽しみのための殺戮に反対してやめてしまった。次から次へと生れて来る子供たちの世話をしたり、家政をとる傍《かたわ》ら、徹夜までしてレフ・トルストイの作品の浄書をして援けて来たソフィヤ夫人とトルストイの間は、トルストイが一度、一度と精神的危機を経験する毎に離反の度を増して来た。一八八七年、五十九歳に達したトルストイと四十三歳のソフィヤ夫人とは銀婚式をあげ、恐らくそれは世界的大芸術家、社会改良家、哲人としての名誉にふさわしい家族的祝祭であったであろうが、トルストイは自分の日記に向ってただ一行、恐ろしい含蓄をもって書いている。「もっとよくあり得た筈だ」と。
晩年、特に最後の数年のトルストイとその家族の生活というものは、さながら急速に崩壊するロシア貴族階級の最も強烈な精神挌闘史の如き観がある。
大体レフ・トルストイの思想と芸術とは、世界文学に冠絶した強靭な追求力、芸術的描写の現実性をもっているにかかわらず、当時ロシアに擡頭し発展しつつあった社会思想とは全然別な道を行っていた。個人個人の人間性への自覚、道徳的・宗教的愛の実践というものが人生を浄めると考えたトルストイは、大地主であり貴族である自身の生活環境に対する批判から、農民の素朴な信仰、飾られない人間性を理想化し或る意味では美化して高く評価した。労働、菜食、百姓なみのルバーシカを着ること、民話をかき、村塾を開くなどそういうソフィヤ夫人の不平の種になるような事々に、トルストイは、真に人類解放を目標として献身
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