カレーニナ」を書いたのは四十九歳のときであった。トルストイが没したのは一九一〇年であったから、今日まで二十七年の歳月が流れた。この二十七年の日月は人類の歴史上かつてなかった大波瀾を内容としていて、彼の見ざる孫の一人ジャンのこの手記が、計らず今日私たちに一種の感動をもって三代のトルストイの生活の上にあらわれた推移を考えなおさせるのである。
 ジャンは、この文章の中に父の名を書いていない。ただ、亡命ロシア人、作家としてパリに生活しているそうだとだけ云っている。父の名を全く知らないのだろうか。或はいやな心持からわざと書かないのか。それは私たちに分らない。母の名も同様である。
 レフ・トルストイには八人の男の子と三人の娘とがあった。そのうち四男、七男、八男の三人は夭折した。残った五人の息子たちのうちの誰が、ジャンの父であったのだろう。ジャンを十三まで育てて亡くなったお祖母さん、唯一の肉親の思い出として語られているオリガ・ソルスキーという老婦人の身元もよくわからない。大方、激しい夫婦喧嘩の末離婚したという母のおっ母さんに当るひとででもあったのだろうと思われる。祖父トルストイの妻はソフィヤ・アンドレーエウナと云って、宮廷医ベルスの娘であったのだから。
 レフ・トルストイが、ヤスナヤ・ポリャーナの村荘にロシア名門の伯爵の長男として生れたのは一八二八年のことであった。トルストイも八歳で孤児になった。非常に人物の傑《すぐ》れた叔母に育てられ、その没後数年は当時のロシアの富裕で大胆で複雑な内的・社会的要素の混乱の中におかれている青年貴族、士官につきものの公然の放縦生活を送った。
 三十四歳になったとき、既に「幼年時代」「地主の朝」「コサック」「少年時代」「セバストーポリ」「三つの死」「結婚の幸福」の作者であったトルストイは、三年の間心に思いつづけて求婚する決心のつかなかったソフィヤと遂に結婚した。ソフィヤはその時十八歳であった。二年前、兄の死にあったこととヨーロッパ見学旅行をした結果、きびしく従来自分がやって来た貴族生活に批判を抱きはじめていたレフ・トルストイは、自身をソフィヤの若々しい純潔にふさわしからぬ者として、なかなか結婚の決心がつきかねた。「アンナ・カレーニナ」の中にあるレウィンとキティーとの插話は、当時のトルストイの感情を語るものと見られている。
 一八六三年一月の日記に、結
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