ばかりにしかなくて、ロシア生活の根で二千百三十五万二千平方|粁《キロメートル》の上に発生する感情と智慧はそれから翔び去れないところの魂のある姿なのだ。そうでないとしたら、社会主義者で芸術家である秋田雨雀さんが、大劇場の桜の園を観た一九二八年に漸く、ロパーヒンは悪人じゃありませんねえ、という興味ある評言を発されるようなことがどうして起ろう。築地はそんなに下手に演じたか? 否。例えば汐見の爺やは、ここの爺やより巧に、効果的に演じられた。演じられぬ魂が、築地のリファインされた全舞台の上に、日本に、欠けていたばかりだ。
もしチェホフの劇作が、真直、ロシアの魂の或る時に迫っているものでなかったなら、桜の園その他の上演が、何故、現代において心理的の問題として討議されるだろう。あの夜、一つ一つの座席を埋めた数千の見物は、兎に角自分達の中にあるロシア魂にぴったりよってくる過去の魂を感じた。彼等はそれを理解しないわけには行かない。あまりわかる。或はやり切れない程わかる。だから彼等は、もう断然ガーエフ的人生を拒絶した彼等は、自分の顰《しか》めた顔の前で手を横に振る。ふう! もう沢山だ! 私は、そこで見る
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