鼻眼鏡をつけ顎に髯のあるチェホフが、独身暮しの医者が、双眼鏡をとって海上の艦隊を眺める。
 町では小歌劇、蚤の見世物。クニッペルがひらひらのついた流行型《アラモード》のパラソルをさしてそれを女優らしく笑いながら観ている。チェホフは黒い服だ。書斎は今ランプが点《とも》っている。まだ石油は臭わない。かなりよい。その下でチェホフは白い紙を展《の》べ、遠くはなれて暮している女優の妻へ手紙を書いている。母が戸をたたき、入って来る。
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――マーシャに云ってお呉れ、次のものを持って来るように。(1)[#「(1)」は縦中横]女中の前掛。(2)[#「(2)」は縦中横]肌着用の白テープ。(3)[#「(3)」は縦中横]裾へ縫いつける黒テープ。(4)[#「(4)」は縦中横]肌着の貝ボタン。
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 再び静か。淋しい。彼はただ坐って新聞を読んでいるだけだ。――この冬はモスクワで暮そう。どうなろうと、医者が何と云おうとも――
 これらには、チェホフの作品中のある光景、気分の断片が照りかえしている。芸術家生活の小さい合わせ鏡。
 この小さい、あらゆる点でチェホフらしい生活の合わせ鏡を、現在オリガ・クニッペルはどんな心持で手にとるだろうか。私はまだクニッペルを見ない。彼女は昨今主としてチェホフの短篇の朗読者としてモスクワに暮している。彼女はピリニャークの家で酔って噪いだ。日本の作家がそれを見て幻滅した。然し私は知らない。自分で見ないうちは知らない。彼女がどんな彼女であるか。チェホフは人間の見えない三文文士ではなかった。
 私を忘れないでお呉れ、もっと度々私に手紙をおくれ。私のことを思ってお呉れ。どんなことが起ろうとも、たとえお前が不意にお婆さんに変ろうとも、私は矢張りお前を愛すであろう。――お前のたましいと性質のために。――私の仔犬よ! 健康を大切におし。病気になったら――そんなことの無いように――すべてを打っちゃってヤルタへおいで、私はここでお前の看護をする。疲れないでお呉れ、子供よ。
 恐らく一九二八年は、クニッペルの上に重いであろう。ヤルタは彼女の手にある合わせ鏡の裡に遺る名だ。人生は絶えず前方へ! すべてに拘らず、前方へ![#地付き]〔一九二八年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発
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